第4章 「過去の未来」 初めて、クーと呼んだ日
――考えてもみれば「何も知らない」私が、彼の登場する本を読んでいたって、なんらおかしなことではないのだ。
なのに、それを知られたくないと思ったのは、私自身の個人的な感情なわけで。
私は手にしていた本を閉じると、もとの本棚へと戻して、小さく呟いた。
「クー」
それは、彼の母国語で「犬」を表す言葉。古代ケルトでは、犬は勇気や美の象徴だ。彼がその言葉を真名の一部とするのは、彼自身がそれを誇りに思っていたからなのだろうと思う。
「クー」という単語に反応して表情を変えた彼の視線を感じながら、私はかごの中の本に手を伸ばした。
「古代ケルトの英雄に、クー・フーリンっていう人がいたそうですよ。どんな人だったかは知りませんけど、きっと、あなたみたいに犬を――勇気や美を、大切に思う人だったんでしょうね」
ひた隠しにしていた本を、ぽいと彼に放り投げ、そして、それを彼がなんなく受け止めるのを確信しながら、私はさっさとレジに向かう。
全く買うつもりのなかった「犬図鑑」を購入し、帰路についた私は、本屋に取り残されたクー・フーリンが片手で顔を覆って、こう呟いたのを知らない。
「反則だろ……」