第10章 愛嬌もの
彼に冷たい視線を送ってみるも、なんのダメージもないようだ。彼は私から離れると、洗面所の方へと歩き出す。
「まぁ…これは髪の毛のお返しだから…。」
『ゔっ…。』
きれいな微笑みをこちらに向けて、彼は軽く髪をいじる。
確かに彼の髪型はひどい有様だ。いつもまっすぐでさらさらとした髪とは思えない。
『はぁー…っ。』
私はわざと大きなため息を吐くが、洗面所からは彼の鼻歌が聞こえてくる。
やはり今日もいつも通りの彼だ、とどこか安心感を感じながらテーブルに朝食を並べ始めた。
____________________________________
バタン_______________
洗面所で鏡の中の自分と目が合う。無意識に目の前の自分が唇に手を運ぶ。
(…俺、普通にできてた…よね?)
昨日の夜、意識を手放しつつもやはり唇を合わせた記憶は鮮明に残っている。
「なんであんなこと…したんだろ…」
意識が朦朧としていてうまく頭が働いていなかったのは確かだ。しかし、なぜか彼女に、彼女の唇に触れたくなったのだ。
彼女への罪悪感はあるものの、椎の胸の高揚は収まることを知らない。今では彼女に荒らされた髪さえも愛おしく感じる。
「なんだろ…胸がぎゅーって…。」
絵夢へ何か特別なものを感じているのは確かだが、それが何かわからず、どうしたら良いのかもわからない。
とりあえず顔を洗い、思考を整理しようと、そっと蛇口をひねった。