第6章 なにもの
それは彼の後方に立てかけてあるあるモップにほうき、ちりとりを見ればすぐわかる。
前日、きちんと片付けられたはずのほうきが、朝一番乗りの彼と共にあるのだ。
『マサさんは、私が尊敬する男性の一人です。』
誰も見ていなくても、いつどんな時でも、常に店のことを考え、尽くす。私にできるとは到底思えない。
「…ふふっ、尊敬する…ね。」
なぜか彼が困ったような顔で自嘲気味に笑う。しかし、そんな表情はすぐに消え、いつもの彼に戻る。
「じゃあ、僕のお嫁さんになってほしいな。」
なんの前触れもなく、唐突な要求に頭が一瞬でフリーズする。しばらくして、自分がからかわれているのだという結論に至った。しかし、それがわかっても顔の熱は上がるばかりだ。
『ま、マサさん!!急に真面目な顔でからかわないでください!怒りますよ!!』
自分の顔が真っ赤なのが恥ずかしくて、言いたいことを一息にまくしたてる。
「えー、割と本気なんだけどなあ。三食付き、風呂・トイレ別。僕を愛してくれさえすれば半永久的にお嫁さんっていう住み込みのお仕事が手に入るよ?」
『私は美容師という職業があるので結構です!!!』
これが大人の余裕というものだろうか。彼は眉ひとつひそめずにいつもと変わらない返しをしてくる。
______カランコロン
「はよーっす…朝から何騒いでんだよお前。外まで丸聞こえだぞ?恥ずかしい。」
『隼斗くん…!こ、これはマサさんが____んぐっ』
「おーっと、絵夢ちゃん。これはふたりだけの秘密…でしょ?」
マサさんが後ろから覆いかぶさるように私の口を両手でふさぐ。苦しくなった私は、どうにかこの体勢から逃れようと首を激しく縦に振る。
「うん。いい子。」
そう言って口元の手をどけて頭を撫でる。いつもは優しいマサさんも、少し調子に乗るとブレーキのかけ方がわからない。
どうでもいいが、彼の悪ふざけは心臓に悪いので極力避けてほしい。
『ふぅ…ちょっとお手洗い行ってきまーす。』
______バタン。
「んー…からかってないし本気なのになぁ。」
「マサさん、職権乱用は禁止っすよ。」
「え?僕はそんなことした覚えはないんだけどな。」
こうして、いつも通り『aspiration』の一日が始まった。絵夢の心に引っかかるのは、なにものかよくわからない感情。