第1章 そこに在った無秩序
タン!室内に響いた音は、まるで食材を切れ味のよい包丁で切ったような、ナイフで人の両手の甲を貫いた音とは思えないほどの、とてもすんなりとした気持ちのいい音だった。
刀身の短い、海楼石のナイフで壁とくっ付けられたマルコは、ほんの少しだけ痛みで顔を歪めながら、アンを見る。
うっとり……。腕に流れる血を見る姿はとても幸せそうで、マルコ自身もなんだか嬉しくなった。
「アン」
「喋っていいって言ってない」
「うぐっ!」
口元を手の平で覆われる。それと同時に彼女の手はドロリと液体化し、透明な水がマルコの鼻、そして口を塞ぐ。
身体の奥底からゾクゾクするない、とマルコは思った。それは貫かれた手が痛むせいかもしれないし、呼吸が出来ず苦しいせいかもしれない。それかその両方のせいかもしれない。とにかくマルコは今の状況に、とても興奮していた。
「苦しい?」
アンの問いかけに、マルコはなんの反応も示せない。いや、示せないのではない。示さないのだ。そうすることでアンは酷く怒って、これ以上のことをしてくれる。
マルコの予想通り、アンは酷く顔を歪めて、能力の力を強めた。途端、我慢出来ていた呼吸がさらにキツくなり、ゴボリ。音を立てて、マルコの口から気泡が上がった。
アンの手が、元に戻る。マルコは何度か咳き込んで、気管に入った水を吐き出すと、涙目でアンを見上げた。髪の毛を掴まれ、ブチブチと嫌な音がする。でも痛いとは感じない。
「もう1回聞いてあげる。ねぇ、苦しい?」
「……苦しくないよい。気持ちいんだい」
「っ⁉︎ふふっ……!」
喉がクツクツと動いて、アンは「そっか」とだけ呟いた。
頭を放して、手の甲からナイフを引き抜く。マルコは小さな悲鳴をあげたものの、その目はうっとりと熱を帯びていた。
「そんなに痛いのがいいんだったら、もっともっと痛くしてあげる」
空を割く音が聞こえると同時に、マルコの肩にナイフが刺さる。悲鳴をあげる前にそれは引き抜かれて、胸、腹、足……。至る所にそれは降ってき、マルコの身体を傷だらけにした。
「ねぇ、マルコ。痛い?」
クスクス笑いながら問いかけるアンに、床に倒れたマルコはなんとか上半身を起き上がらせて、ニイッと笑みを浮かべる。
「あぁ、気持ちいいよい」