こんにちは。
皆様、文春砲にやられているようで…
日記も動きが鈍っていますね…
私は記事の確認はしていないんですが、勝手に目に入ってくるタイトルにやられています。
もう!見せないで。
嫌だから絶対内容見ないわ。
黒焦げの智見て和んどく。
ということで、こんなんは忘れる!
前回の日記にコメントいただきましたので、お礼いたします。
♡Ms.Xさま
ほんとそうです。
無駄なエネルギーはさっさと別に転換すべきです。
でないと自家中毒起こしますよねw
自分で自分を攻撃することほど、無駄なことありませんから…
人に嫉妬して、嫌がらせをしてる人の顔面は醜い。
いじめをしてる奴らの顔の醜さ、犯罪を犯した奴らの顔の醜さ。
どんなにもともとが整っていても、内面が醜かったら台無しですよね。
別に聖人や菩薩みたいになれとは言いませんが、成功してる方の笑顔って素敵ですよね。
見習って、私もそのような笑顔の持てる人間になりたいものです。
一緒に頑張りましょう!
素敵なコメントありがとうございました!
8月に入りましたね。
旧暦の8月1日は「八朔」という日です。
今のこよみだと、8/25~9/23のどれかの日になるそうです。
今年の八朔は9月10日になるそうです。
八朔ってどんな日かご存知ですか?
農民の間では五穀豊穣を願う節句みたいな感じだったようです。稲の刈り取り前ですもんね。
今でもお祭りの残っているところもあるそうです。
私は、徳川家康が初めて江戸城に入城した日だと記憶しておりました。
なので、本当は旧暦なんですが8月に入ると、私は徳川家康のことを思い出してしまいますw
歴史脳だw
私は司馬遼太郎が好きなので、どうも徳川家康にはいい感情を持っていません。
(駿河・三河のひとごめんw)
なぜなら、司馬遼太郎が家康を好きではなかったからですw
司馬史観とも呼ばれる、司馬遼太郎独特の歴史の見方があるんですが、二十代の頃はどっぷりそれに浸かっておりました。
主に司馬史観は戦中・戦後(大東亜戦争)についての考察のことを指すのかなと思っておりますが(ちゃんと調べろw)、戦国や幕末についても独特の見方だなあと今になれば思ったりもします。
一般的に、家康は戦国時代を制した大人物であるというふうに言われています。
確かに、有象無象の血筋のよくわからん盗賊上がりみたいな武将たちを制して、下剋上や一向一揆を生き延びて天下をとったので大人物であったのでしょう。
だがしかし、司馬遼太郎は…簡単に言うと「大東亜戦争につながる、あの暗い流れを作ったのは家康の三河根性である」と。
これ、あくまでも簡単に言ってるし、私解釈なので、興味のある方はぜひとも著書を読んでみてください。
(小説なら「覇王の家」あたりかな。流れを読みたいなら「太閤記」「関ヶ原」も。あとは「歴史を読む」というエッセイなどもあります)
司馬遼太郎は、大東亜戦争の時期に戦役で青春時代をめちゃくちゃにされている世代です。
ですから、なぜ日本があのような戦争をする流れになったのかを、戦役から帰ってきて、新聞社に就職してからも考え続けていたようです。
その結果導き出したのが、「家康が日本を変えた」という結論だったのではないかな?と私は思います。
それまでの中世日本は、もっとオープンで陽気な性質だったといいます。
南国の島国を思い浮かべてください。
あのような大らかさがあったようです。
だけども、三河という当時の片田舎から出てきた大名が天下を取って、政治機構も当時の憲法にあたる法度も、なにもかも三河のものをそのままで政治を始めてしまった。
若くても「老中」とか「年寄」とか、今で言う大臣の役職名は、三河の徳川家(松平家)のそのままの呼び方だそうです。
あら…案外長くなってしまったなw
ま、何が言いたいかというと、その「三河根性」がそれまでの日本を変えたと、司馬さんはおっしゃっていまして。
五人組で近所を相互監視をして連帯責任を取らせるのは、農民が土地を放擲して別の土地に逃げないためでしたが、それが陰湿な軍部の性格に繋がったんじゃないか、とか。
密告政治なんてそれまでなかったのに、それが日本の政治の土壌を作ったんだ、とか。
他にもいろいろ言っていますが、主にそういうふうなことで、司馬遼太郎は家康が嫌いみたいです。
結局家康は、天下を取って「大御所様」になっても、政治の実権を離しませんでした。
二代目の秀忠が頼りなかった説もありますが、そうじゃないと私は思っています。
それが三河根性だったんじゃないか…
それが典型的な日本人の頑固親父像になったんじゃないか。
「俺は生涯現役だ!引退なんかせん!」
なんて思うと、家康が身近に感じられるんじゃないでしょうか?
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