こんばんは。
今日も具合がよろしく無くて一日寝ておりました…
ほんとね、頭痛いと何もできないね。
お正月にもこれとおんなじ位の酷いの来たけど、またきたよ…
ああいやだゆううつだ。
薬を飲むとちょっと良くなるんだけど、効いてる時間が短くてね…
おまけに吐き気も伴っておりますので。
そりゃあおめえ…
無理ってもんさw
早く人間に戻りたい…
明日の分は書き終わったので、ちょっとだけ息抜きします。
この前、雪と戦国武将について語りました。
少しだけ。
ハーフにするくらいでもないから、今日もちょっとだけ地理と日本史を合わせたような話でもしましょうかね。
そもそも、なぜあんなにたくさん雪の降る所に人は住んでいたのか。
それを遡っていくと、なんで原始人は、あんなに気候が厳しい東北とか北海道に住んだのか?ってことに行き当たります。
あったかいところなら、食べ物も豊富にあるし。
気候があったかいほうが動物だって暮らしやすいから、猟だってしやすかったはずです。
なのになぜ…東北や北海道に原始人たちは住んだのか。
それは、気候が今よりも温かかったからです。
今よりも実は東北や北海道って本州の太平洋側くらい住みやすい気候だったんですね。
だから、青森にある三内丸山遺跡なんかは、とても進歩した文化をもっていたそうです。
ここの遺跡ははぜ遺棄された(人が急に住まなくなったようです)のかはわかっていないようなんですが、とにかく縄文時代なのに栗の栽培やってたりとか、すごい進んでいたそうです。
そして、二年前くらいに話題になったのですが、世界で最古の漆の工芸品が発掘されたのは、なんと北海道の垣ノ島遺跡でしたね。
それは約9000年前のものだったそうです。
中国で出土されているものよりも、古いんだそうですよ。
と、このように東北・北海道ではとっても進歩した文化があったようだと思われます。
ということは、今ほどは気候も厳しくはなかったようだと推測できます。
ここ数千年の間に、今のような気候になったと思われますが、北海道や東北に住み着いた人々は、そのまま住み着くことになったんですね。
と、ここまで考えると…
邪馬台国(2~3世紀)は一体何処にあったのかという問題なんですが…
今は、畿内説が有力ですが、今だに九州説も唱えられています。
畿内は、大和朝廷があった所だから。
ヤマト=ヤマタイということで、畿内説が昔から有力。
たくさん古墳がありますし、なによりも大和朝廷がそこにあるんだから、当時の強国である邪馬台国がそこにあっても不思議ではありませんよね。
一方、九州では「金印」が出土されています。
教科書で習いましたね。
「漢の倭の奴国王」と記された金印が福岡県で発見されております。
ということは、魏志倭人伝に出てくる奴国は九州にあったのだ!だったら、そこの近くと書いてある邪馬台国は、九州にあったんじゃないか!というのが九州説です。
これはのさまじょ的にごく噛み砕いておりますので、きちんとした学者さんの主張を皆様も調べてみてくださいませ。
と、今はふたつの地が候補として上げられておりますが…
ちなみに魏志倭人伝には魏から邪馬台国への行き方みたいなのが載っておりますが、距離も方角もめちゃくちゃで、そのとおりに行くと、太平洋上にでてしまうようです。
だので、邪馬台国の位置って今だによくわかっていないんですね。
卑弥呼の墓も出土してないし。
今は、奈良県の桜井市にある箸墓古墳が卑弥呼の墓ではないかとは言われていますがね。
もしも東北に三内丸山遺跡みたいなのの子孫たちが、その頃まで居たとしたら…
東北にそのころに邪馬台国みたいな国があってもおかしくないんじゃないかな。
なんて、思いません?
私が好きな本で「邪馬台国はどこですか?」っていう鯨統一郎さんの歴史ミステリーというか…ぐだ話みたいな本があるんですが、そのお話を読んでいて、これは東北にあってもおかしくないって思うきっかけになりました。
別に真っ向から訴えてるわけでもないし、歴史学者にそんな話をしたら鼻で笑われるような話です。
でもロマンがあっていいと思いません?
それに加えて、北海道の垣ノ島遺跡の漆の工芸品の話なんか、とっても興奮しましたね。
これは、東北には何か眠ってる!ってw
でも。
いかんせん、東北や北海道からは、2~3世紀の大きな遺跡がでてないんですよね…
遺跡がないものについては、ないとしか言えない。
議論の対象にもならんのですよね。
正直、開発が進んでいないだけで、実はざっくり東北にはなにかが眠っている気がしてなりません。
なんて、気候のことを考えながら、思ってみました。
明日からまた雪です。
皆様も歴史ロマンに浸ってみませんか?
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