こんにちは。暑いね。
体温ほど今、暑いです。ちぬ…
忘却の彼方から戻ってまいりました。
今日は普通の日記ではなく、ハーフの続きを書きたいと思います。
信長と天皇のお話が途中だったので、再開いたします。
お手数ですが日記一覧の「6」まで遡り、前回のお話を思い出してくださいませ…
どんな時代であったのか、天皇がいかほど偉いのか、その天皇が任官する役職について、そして信長とはどういう人だったのか。
そんなことを諸々含め語っておりました。
で、天皇と信長の関係なんですが…
天正9年(1581年)2月に「京都御馬揃え」というのを信長がするんですね。
1581年というのは、信長の死の前年で、関ヶ原の戦いまで19年というときです。
最初、安土のお城で信長が大規模な左義長をしたそうです。
招待されてそれを見たお公家さんたちが、ぜひ内裏(御所)で天皇にも見せたいといって、京都でもやることになった。
でも信長は左義長ではなく、御馬揃えをする。
御馬揃えとは、軍事パレードですね。
お隣の国の北の将軍様がよくやってるやつです。
俺はこんなに強いんだぞ、財力を持っているんだぞと誇示するための物ですね。
こんなの一回でいいのに、同じ年の3月に信長はまたやってる。
これについては、理由はわかっていないそうです。
で、ここでいろんな学者さんがいろんな説を唱えてます。
単純に天皇の無聊を慰めるためという説もあります。
しかしもう一個、これは脅しだったんではないかという説があります。
実は信長、1576年頃からずーっと正親町天皇に譲位するよう促してるんですね。
譲位する誠仁親王は、もちろん信長の意のままに詔勅(天皇の命令みたいなもん)を出してくれる人ね。
だけど正親町天皇は、全然譲らない。
だから御馬揃えで武力を誇示して脅したんじゃないかと。
このころ、急激に勢力を伸ばした信長には敵も多かった。
反織田網みたいなのもあったりしてね。
全てワンマンが故なんだけど、周辺大名を力でねじ伏せる方式にしてたから、やっぱり反発も多かった
だから力を失って名ばかりになりつつあった正親町天皇も朝廷側もなんとか頑張れたんですね。
でもね、信長は既に京都を手中に収めて居ましたから、言うことを聞かないなら、武力でねじ伏せちゃえばよかったんですよ。
現に他の勢力や反織田の大名にはそうしてきたんですから。
ましてや天皇や公家なんて今はもう何の力も持っていない。
簡単に踏み潰すことができた。
室町幕府は、その成り立ちが天皇と密接に関わっています。
だから朝廷とは切っても切れぬ間柄だった。
結果、室町末期には朝廷とずぶずぶな関係になって、結局将軍の威光などどこにもなく、武家政権がなし崩しになっていた。
だけど信長は自力でここまで来ています。
室町幕府の体たらくを見ていたし、室町最後の将軍を追い出してしまったのは信長自身でした。
だから武家政権には、朝廷を天皇を絶対にかかわらせないほうがいいということは、嫌というほどわかっているはず。
なのに信長は天皇を殺してしまうことはしなかった。
現代は形式的にいうと…
天皇-内閣総理大臣/与党-国会
戦国の当時は…
天皇-朝廷/公家-朝廷側の大名
-将軍(室町幕府)-幕府側の大名
-信長-信長側の大名
という勢力図だったんですね。
非常に政権の構造が複雑だったんです。
このころにはもう、将軍/室町幕府は既に信長が倒しています。
だから信長が天皇を倒していれば、第六天魔王どころか、日本国王にもなれたんですよ。
でも、信長はしなかった。
二回の御馬揃えのあと、やっと正親町天皇は譲位することに同意します。
信長に左大臣就任を要請していて、就任には正親町天皇の譲位という条件を出していました。
どうしても朝廷側は、信長を取り込みたいから5年もの間渋っていた譲位をやっとここで決断するわけですね。
しかし信長は、これを断っている。
自分で出しといた条件なのに…
で、その後正親町天皇は、信長に太政大臣か関白か征夷大将軍になって欲しいと信長に言ってるんだけども実現していない。
で、この年の8月にまた今度は安土で御馬揃えをやってる。
これは、政権の中心が京じゃなくって、安土になるんだよって宣伝してるというのが通説です。
なんでこんな回りくどいことを信長はやったのか。
やっぱり彼は、江戸時代に徳川さんの都合のいいように作られたイメージではなく、武略と智謀の人だったんではないかと思いますね…
全て、自分の持つ政権を天皇以上にしたかったから故の、行動だったんではないかと。
…いい所まで来ましたが、文字制限。
いつになるかわかりませんが、次回は今度こそ核心まで行けたらと思いますw
まて次号!
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