こんばんは。
雪が…降ってるわ~…
天気予報外れないw
ということで、信長咄も四夜目。
どうぞ今夜もおつきあいくださいませ。
天皇と信長。
まだここまで語るのに、もうちょっと語り足りないw
もうちょっと信長という人のことを書いてみます。
信長は良く言えば先進的な人。
悪く言えば伝統を感じることができなかった人…?かな?
現代的な感覚で言えば、アメリカ人に近い感覚をもっていたんではないでしょうか。
信長は武士のおうちには生まれましたけど、分家でしたね。
そして若い頃は庶民に混じって、悪いことばっかり。
だから、普通の武士の感覚とはちょっと違っていたように思います。
あ、今で言う武士とはもちろん違いますよ?
武士道とかそういうのって、江戸時代に生まれた観念ですから。
だから大河ドラマでよく江戸以前の時代をやっているとき「武士とは主人に忠義を尽くすのだ!」とか言ってるのは、ちょっとごちゃまぜになっているなと私は思っています。
そういう価値観がなかったとはいいませんが、一般的ではなかったと思うので。
この頃の武士っていうのは、もっと即物的っていうか…
時代を牛耳ってやるぜ!とか、もっと領土広げてやるぜ!とか、ギラギラした野武士的な感じの人が多かったと思います。
それと同時に室町から続く歴史ある武家のお家っていうのは、お公家さん化していますから、下克上とかやるような武士とはまた違います。
室町幕府から役職(土地)もらう=金持ちになる=良い家柄のお家になる=教育も充実する=教育といえば当時はお公家さんにする教育のこと(歌とかお作法とか)=お公家さん化する
簡単に言えば、こういうことで武家なのに中身はお公家さんみたいなのができあがるんです。
当時は教育のある大名で、お公家さんみたいな人が居たっていうのはこういうことなのです。
で、信長はといえば、お公家さんとは関係のないところで育っています。
嫡流の家でもないから、鎌倉から続く”武士とはこうである”みたいなのも薄い。
むしろそういう古い価値観がなかったのが良かったのかもしれない。
伝統とか家柄とか重んじていたら、無能な家来だったり意味のない習慣に縛られて、新しいことはなかなかできませんからね…
例えばね…
武田信玄は、天台宗に帰依して”天台座主の一番のお弟子だよん”(天台座主沙門信玄)と名乗ったりしてます。
もうそういう名誉みたいなのが大好きなんですね。
なんでかっつったら、武田の家は鎌倉から続く名流の守護大名の家だから。
そういうのが凄いんだと解っているから、喜んで書状にも”天台座主の一番のお弟子だよん”って書くんです。
一方、信長はといえば、信玄のそれを見て”俺は第六天魔王だからそんなのが偉いかどうかわかんねえよん”(第六天魔王信長)なんて書状に書いちゃう。
こういう違いが、信長を時代の寵児にしたのではないかと思うのです。
この信長の生きた戦国時代というのは、こういう新旧のものの価値観とか、考え方がひっくり返るような時代でもあったと思うのです。
こういう時代にこそ、変わった人が生まれてくる。
例えば戦国の次にくる混沌とした時代といえば、幕末。
江戸末期には、本当にいろんな個性を持った人が世に出ています。
混沌とした時代だからこそ、信長のような人が世の中で頭角を表して行けたのです。
これが支配の固まった常の世なら、変わった人は弾かれますからね…w
いつの時代も、変わった人は爪弾きになるものです。
あ…あとね。
これも書いておいた方がいいかな…
プロパガンダっていうのがね、この時代にもあって…
それは多くは江戸時代に生まれたものなんだけど。
秀吉は女好き!だらしのないやつ!猿!
信玄は強い!本当に強い!やばいやつだった!
これ、実は徳川さんによる家康をよく見せようキャンペーンだったんです。
皆様のイメージにある、秀吉像や信玄像っていうのは徳川さんが宣伝したがために、江戸時代に小説とかになって定着したイメージなんです。
秀吉は女好きっていうのは、たしかにそうでした。
でもそれってね、跡継ぎがなかなか生まれなかったからなんです。
なんなら家康のほうがすごかったんですよ。死病に掛かるまで、寝所に必ず女性を侍らせていましたからね。
信玄が強いっていうのは、家康が子供みたいにあしらわれたことがあるからです。
で、ビビって逃げ出して糞たれたんですよ。
だから神君家康公がビビって逃げる相手なんだから、強かったんだ!信玄は強かったんだ!ってね。
宣伝したわけですよ…
実際のこの人達がどうだったのか、ちょっと調べて見てください。
実は詳しくわかってないことのほうが多いんですよ。
びっくりしますよw
ああ…
ごめん、今日もなんか終わらなかったw
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