おばんです。
なんだか昨日の歴史談義から火が付いたので、今日も歴史談義をしましょう。
私の大好きな戦国~安土時代にかけて生きた、織田信長。
この方、とっても人気のある武将です。
今年公開の大野さんの映画のことがありますので、ちょっとこの方について語ります。
忍びの国を読み解くヒントになればいいな。
この人は、この時代の常識というのを尽く覆した人で、誰もがやらなかったことをやったので、自分のことを第六天魔王とか言っちゃう人です。
皆様のイメージとしては豪胆・冷酷・革新的、そんなイメージがあるのではないでしょうか。
室町末期に尾張国(今の愛知県)に生まれました。
室町幕府が最早、形骸化している頃です。
室町幕府により守護大名として任命されて、その地域を支配しているお武家さんが、京都のお公家さんみたいに遊び呆けているのを部下や親戚に次々と乗っ取られて取って代わられる、そんな時代です。
そう「下剋上」という、古い勢力に新興勢力が取って代わろうという時代です。
信長の織田家も実は分家筋だったそうです。
若い頃は、大うつけと言われ好き放題やっておったそうです。
なんだろ…
ちょっと古いけど、カラーギャングみたいなもん?w
ご城下のちょっと危険なお兄さんたちを従えて、やりたい放題。
父ちゃんが死んだ時は、祭壇に向かって抹香を投げつけるとかね…あんた何があったんだw
見かねた乳人のじいさんが、止めにかかるけどだめで諌めるために切腹して死んじゃうほど。
一説には信長に絶望したとかも言われてるけどね。
で、なんかねえ…大変な人生でね。
ここから尾張国を支配するまで、身内に裏切られ裏切られしてのし上がっていくんですよ。
信長の家臣として有名な、柴田勝家だって最初は弟方についててね。
でもなんとか実力でのし上がって尾張を支配するまでになる。
まあでもね、身内でも血が繋がってても争う、そういう時代ではあったんです。
だから信長の家だけがこんなだったわけじゃあないんですよ?
んで隣の美濃の国や駿河の国には、斎藤道三とか今川義元っていうもうそらもう癖のあるおっさんたちが居てね。
斎藤道三とは形式上和睦して、その証として娘である濃姫っていう嫁さん貰ってます。
でも斎藤道三が弱ったときに攻撃して、結局は滅ぼしているんですがねwすげえやつw
でその、曲者の今川義元が領土を広げようと尾張に攻めてきます。
で、信長は逃げても良かったし、逃げようよって家臣は言ってた。
負けるのも、ほとんど確定っていうくらい戦力に差があったから。
でも信長は逃げなかった。
戦うって宣言しちゃうんですね。
もう、壮大な自殺ですw
で、ここからが大事。
これは「桶狭間の合戦」と言って非常に有名な合戦なのですが。
江戸時代に「信長記」(しんちょうき)という本ができました。
これは読み物的なものであり、これがあるお陰で作り話を史実として皆勘違いする原因になったのです。
本当の信長の歴史は「信長公記」(しんちょうこうき)というのがありまして、こっちがほぼ史実なんだろうと言われています。
信長記の作者は桶狭間には行ったことがありません。
だからその名前からきっと谷なんだろうと、山肌から織田軍を攻め入らせ今川義元を討ち取らせています。
実際の桶狭間は谷ではありません。山です。
山の上って言ったらいいの?
大軍が宿営してるとこに、錐のように少数で突っ込んで大将首を挙げたというのが事実です。
当時の戦は大将が死んだら終わりで、大将の首を取ったほうが勝ちなんです。
それに信長記では今川軍が公家化してて、役に立たなかったなんて風に書いてますが、そんなことはありません。
とってもとっても強かったんです。
今川義元はそれこそ武略の人だったのですから…
次の大河では春風亭昇太さんが今川義元の役をやりますが、お公家化した義元さんを演じるみたいです…
だからね、大河ドラマとは言え、ドラマだから。
史実とは違うという認識で大河は見なきゃだめです。
実際の義元さんは「海道一の弓取り」と言われていました。
海道とは”東海道”、弓取りとは”大名”ってことで、東海道一の大名ってことですね。
とっても強かったからこそ、こういう名称をつけられたんでしょうな。
どこかできいたことがある。
そう、家康です。
徳川家康もそう言われていましたが、何事も旧習を喜ぶ家康の性格がよく出てますよねw
そう言われて喜んでいたんだろうから。
あ…もう書けないw
まだ本題にたどり着いてないのに…!w
昨日の天皇からの流れで、信長の話をしようと思っていたのにw
ということで、信長の話はまだ続きましょう。
次の与太話をお楽しみに。
のさまじょおばさん
日記へのコメント
http://dream-novel.jp