第2章 『静寂をしまう指先』
朝の廊下は、まだ静かだった。
調査兵団本部の石床は夜の冷えを残していて、足音がやけに響く。
その音を気にも留めず、
ハンジ・ゾエは窓辺に肘をついていた。
外は少し涼しい。
朝靄が完全に晴れきらず、空の輪郭がやわらいで見える。
「……いい朝だね」
誰に向けたわけでもない、独り言。
けれど声は不思議と穏やかで、
昨夜までの思考の熱が、すっかり落ち着いているのが分かる。
眼帯の奥で、片目だけが細められた。
観察するようでいて、
実際には何も分析していない。
こういう時間は、考えなくていい。
仮説も、結論も、今日はまだ要らない。
窓を開けると、ひんやりした空気が流れ込む。
ハンジは一瞬だけ目を閉じて、その感触を受け取った。
「……悪くない」
それだけ言って、窓を閉める。
次の仕事が始まる前の、ほんのわずかな空白。
彼女はその空白を、誰にも渡さず、自分のものとして胸にしまった。
_________
本部の時計が、静かに時を刻んでいる。
まだ誰も廊下を行き来しない。
ハンジは、机の端に腰を預けたまま、書類には手を伸ばさない。
朝のこの時間だけは、
「何もしない」という選択が許されている気がした。
窓の外で、鳥が一羽、低く鳴く。
それだけで、世界がちゃんと動き出したとわかる。
ハンジは口元だけで、ほんの少し笑った。
声に出すほどの感情ではない。
でも、悪くないと思った。
やがて足音が増え、
いつものざわめきが戻ってくるだろう。
その前の、ほんの一瞬。
静かな朝は、確かにここにあった。
_________
ハンジは、窓から離れた。
朝の静けさは、もう十分に胸に収まっている。
長居はしない。
この時間は、引き伸ばすものじゃないと知っている。
眼帯の位置を、指先で確かめる。
ほんのわずかなズレを直すだけの仕草なのに、
それだけで雰囲気が変わった。
背筋が伸び、
視線が外へ向く。
さっきまで、世界を“眺めて”いた目が、
これからは“見る”目になる。
廊下の向こうで、扉が開く音がした。
誰かの気配が近づいてくる。
ハンジは小さく息を吐いて、
口元にいつもの表情を乗せる。
静かな朝は、もう彼女の中にある。
_________fin.