第55章 さくらの精
なんだろうと思い、見上げましたが、そこには満開の桜があるだけでした。
『何だよ、なにもないじゃないか』
そう思って視線を女性の方に戻したとき、僕は腰が抜けるほど驚きました。
今、そこに立っていたはずの女性が、桜の木にロープを掛けて、首をつってぶら下がっていたのです。
一気に血の気が引いた僕は、自転車に飛び乗ると、そのまま逃げるようにその場を離れました。
ところが、5分ほど自転車を思いっきり漕いだところで、ふと思ったのです。『首をつったばかりなら助けなくてはいけなかったのでは?』と。
しかし、とてもじゃないけど、ひとりであの場に戻る気にはなれません。
そこで、110番をして警察の人を呼びました。
パトカーのサイレンが聞こえたのを見計らって、僕は例の桜のもとに戻ったのですが、不思議なことにそこには何もなかったのです。
僕はダメ元で、お巡りさんに先ほど自分が見たものをありのままに説明しました。しかし、現実には、死体はおろか、人の影すらないのです。
これは、信じてもらえないだろうな・・・そう思ったのですが、パトカーに乗っていた制服警察官は二人して顔を見合わせて言いました。
「ああ、いつものことだから…」
そう言って、こんな話をしてくれたんです。
この桜の木で、10年くらい前に女子大生が首を吊って死んだ。
それ以来、年に数回のペースで110番が入るけど、行ってみたら何もないということがあるのだという。
「うちの署じゃ、有名な話だよ」
そう言って警察官は笑ったのです。
それを聞いて、安心したわけではないですが、こんな変なマボロシを見たのが、自分だけではないと思って少しホッとしたのは確かでした。
ところが…、
ただ……、ともう一人の警察官が言いました。
「いつもの110番っていうのは女性の声で
『〇〇桜で首を吊ります』というものなんだよな…
実際に、首をつった人を見たって通報…お前聞いたことあるか?」
そう言ったのです。
尋ねられた方の警察官も知らないと答えていました。
でも、たしかに僕は見たのです。
桜の木にぶらりとぶら下がる、ワンピースの女性の姿を。
あれは一体…何だったのでしょうか?