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天狐あやかし秘譚

第116章 温慈恵和(おんじけいか)


「まま・・・?」
女の子が心配そうに母親を見上げる。母は『大丈夫よ』と言うと、その子を抱き上げ、手近な空いている席に座った。

空港は上を下への大騒ぎだ。

そんな中、一人の妙齢の上品な御婦人がしずしずと歩いていた。
シルバーグレーのカーディガンにグレージュのワンピース、足元はベージュのフラットパンプスだ。カラカラと小さめのチャコールのスーツケースを引き、ふと掲示板を見上げた。

「あらぁ・・・これじゃあ、私はどこに向かえばいいのか・・・わからないわねえ・・・」

どうしようかしら?と小首を傾げる。
ただでさえ、搭乗時間ギリギリだったはずなのだが、御婦人は困った様子こそ見せたものの、焦ってはいないようだった。

「でも、まあ・・・乗り逃したとしても、次のに乗せてもらえばいいかしら?」

そんな、空港スタッフが聞いたら卒倒しそうな独り言をつぶやきながら、やれやれといった風情で、カフェにでも行こうかと歩き始めていた。

もし、この光景を誰か第三者が注視していたら、この御婦人の周囲の時間だけが、なんだかゆっくり流れている・・・そんなふうに見えたかもしれない。

ゆったりゆっくり、どんなことにも動じない・・・それがこの女性、浦原朱音(あかね)の最大の長所にして・・・そして、短所でもあった。
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