第87章 口付け【R18】冨岡義勇
「ねえ、もういいでしょ。気が済んだ?」
無一郎は、イライラしていた。しかし、背中に回された美月の腕は解かれる気配がない。
「もう少しだけ…。こうして背中をトントンしていてください。そうすれば、あの夜のことは忘れてあげますから」
美月の甘ったるい声が、今の無一郎には酷く耳障りだった。
数日前、任務の疲れから彼女の部屋でうっかり眠り目覚めた時に、ゆきと間違え口付けをしてしまった…。
それを、ゆきに知られたくない…その弱みを握られ、無一郎は最近、不本意な密会を強いられていた。
「君の要求は、いつも代償が大きすぎるよ」
無一郎は強引にその身を離した。
「こんなこと、もう終わりだ。これ以上はゆきに誤解を招くだけだ」
そう言い立ち上がろうとしたその時。
静まり返った中庭の奥、微かな音が聞こえた気がした。
「何? 猫?」
無一郎の鋭い感覚が、わずかな違和感をおぼえる。
美月を置き去りにし、その音が鳴ったであろう場所へと歩を進めた。
一歩近づくたびに、心臓の鼓動が早まる。得体の知れない胸騒ぎがする。
「…ゆき?」
無意識にその名を口にした…もしかして見られてた?
無一郎は物置の扉に手をかけ、思い切り引き開けた。
そこには、倒れたほうきが転がっているだけだった。狭く、埃っぽい空間。人影はない。
「気のせいか」
扉を閉めようと手を離しかけた、その瞬間。
「えっ?」
ゆきの甘い香りが鼻をかすった。なぜ…こんな物置小屋から?
慌てて辺りを見るがゆきの姿は見当たらない…
「なんで…。どうして、ゆきの香りが、こんなところで」
無一郎は、震える足で小屋を飛び出した。
「ゆき!」
無一郎は廊下を、ゆきの部屋へと一目散に駆け出した。