第1章 諸伏警部と陽気な彼女
「今は、満足だとでも答えましょう」
「はいはい。今は、ね」
「今度は大人な感じで是非お願いしますね」
「お願いなんかしなくても高明さんが勝手にするでしょ?」
「わかっていませんね。貴方からされることに意味があるのです」
ふふ、と笑いながら車のエンジンをかける。もちろんシートベルトは締めてから。
いつもより気にかけてゆっくりめに走り出した車は私の気持ちそのもののようで……待つほど楽しいことはない、とは言い得て妙。帰路につく時間をこんなに楽しく思うことなど、秋穂さんが隣にいなければ思うことはないでしょう。
自分の家に帰るという行為自体は同じであっても、誰と帰るかでこんなにも変わるだなんて。彼女と出会わなければ気づかなかった……いや、思い出すことができなかったかもしれない。本当に温かい人だ。
「秋穂さん」
「ん?」
「僕を選んでくれてありがとうございます」
「こちらこそだよ、いつもありがとね」
「つきましては」
「うん」
「僕をダメにした責任をまでとっていただくようお願いします」
「ふはっ! それは最後まで責任とらないとだわ!」
「孤の孔明あるは、なお魚の水あるが如し……劉備玄徳と諸葛孔明の仲が良いのを見た関羽と張飛が不満を漏らしたとき、劉備が言った故事です」
「ごめん、十割ほど何言ってるかわかんなかった」
「要は全部ですね」
「残念ながら」
都合よく赤信号で停まった車のブレーキをしっかりと踏みながら、右手で彼女の左手をするりと撫ぜる。ぴくりと動いて反射的に逃げようとしたその手を絡めとり、自分の口元へと寄せてリップ音を響かせながらキスをした。
「僕たちは水と魚のように切っても切り離せない関係だということです。なので覚悟するように」
「最後なんか脅された気がするんだけど」
「信号が青になりましたね」
「あからさまに話逸らした!」
「あははっ」
「あははっじゃない! もうやだこの人ー。私の恋人、頭も口もキレッキレでやだー」
やるせないとでも言いたげに、ぐだりと背もたれへ体を預けた秋穂さんを見て思わず喉奥からくつくつと笑いが溢れる。そんな僕を好んで選んだのは貴方だと言うのに。
「夜はこれからです」
僕たちの関係を貴方に刻んでいくには短すぎる夜かもしれないが──ね?
END