第19章 「死に咲く花」
床に赤いジュースが、じわりと広がっていく。
甘い香りが漂ったはずなのに――
鼻を刺したのは、鉄の匂いだった。
(……いや……)
手が震えていた。
足が勝手に一歩、後ずさる。
「?」
先生の声が聞こえるが、返事が出てこない。
ジュースが、床をゆっくり這っていく。
私の靴のつま先に触れた瞬間――
赤いジュースとあの“血の海”が重なった。
火の匂い。
血の匂い。
風の音。
誰かの叫び声。
(……やだ……)
死体の山。
潰れた赤いアネモネ。
何十人の死体。
血に濡れた悠蓮。
(やめて……)
そして――
手に残る“あの感触”。
胃の底が裏返るような吐き気が込み上げた。
「……っ、すみません……っ!」
とっさに口を押さえて、私は走り出していた。
景色が赤くにじんでいく。
誰かが私の名前を呼んだ気がしたけれど、振り返る余裕なんてなかった。
トイレのドアを押し開け、個室に滑り込む。
乱暴に鍵をかけた瞬間、膝が折れた。
便器にしがみついたまま、何度も、何度も、空気ばかり吐き出す。
吐けるものなんてもうないのに、まだ込み上げてくる。
それは胃じゃなくて、もっと奥……胸の奥の、さらにその奥がえぐられるような感覚だった。
喉が焼ける。
冷たい汗がこめかみに流れていく。
目を閉じても、まぶたの裏にあの光景がうごめいた。
「っ……ぅ……うっ……」
向こうで、空港のアナウンスが遠くかすれて聞こえる。
肺のあたりで空気が跳ね返されるみたいに、浅い呼吸しか続かない。
冷たい床の感触と、口に残る酸っぱい味だけがやけに鮮明だった。
私はただ個室の狭い空間にしがみつくように身を丸めて――
小さく、小さく、呼吸を繰り返すことしかできなかった。