第18章 「血と花の話をしましょう**」
深夜 午前二時。
面会も受付もすでに終わっているはずの時間帯。
病院の待合室には、時計の針と換気扇の音だけが響いていた。
集中治療室からの呼び出しに備え、彼女はただ黙って椅子に座っていた。
膝の上のバッグは、握りしめられた両手で歪んでいる。
そんな彼女の前にひとりの男が現れ、隣に座った。
妙に整った顔立ちの男だった。
彫刻のように整った鼻梁と、落ち着いた光の宿る灰色の瞳。
白衣は着ていないが、こんな時間にいるのだから病院関係者だろうかと、彼女は思った。
その男が静かに声をかけた。
「血から花が咲く神話をご存じですか?」
「……え?」
隣の男は、ただまっすぐに彼女を見て話を続けた。
「アドニスという若者の話です」
女はわずかに首をかしげる。
言葉の意味を探るように、視線だけが男の横顔をとらえていた。
「女神に愛された美しい青年でしたが、狩りの最中に命を落としました。けれどその死は、ただの終わりではなかった」
彼はゆっくりと、足元のカバンから古びた本を取り出した。
革の表紙を開き、パリ、と音を立てながらページをめくる。
「女神アフロディーテは、彼の血が流れた大地に花を咲かせたのです。――赤いアネモネ。“死んでもなお、美を残す”という、古代の象徴です」
ページの上に描かれた花の挿絵が、蛍光灯の下で鈍く光った。
それは、妙に生々しく、まるで誰かの血を吸って咲いたようにも見えた。
「興味深いと思いませんか。
神話の世界では、“死”は時に、芽生えのきっかけになる。
血が大地に沁みるからこそ、新たな命が芽吹く。
死は、終わりじゃなく……始まりになることもある」