第9章 「あなたの知らないさよなら」
陽射しが、高専の廊下に斜めの影を落としていた。
梅雨前の湿った風が吹き抜け、教室のカーテンを小さく揺らす。
五条は、静かに足を止める。
一年の教室――
ガラス越しに覗いたそこには、四つの机がきちんと並んでいた。
そのうちの一つ。
教室の奥、左側の窓際。
そこだけがぽつりと空いている。
誰かがそこにいた気配だけを残したまま、
ぽっかりと空いた空席が、まるで“穴”のように感じられた。
伏黒はノートに目を落とし、釘崎はスマホをいじっていた。
虎杖は、窓の外をぼんやりと見ている。
静かな日常。
だが、その“静けさ”こそが、彼女の不在を何より雄弁に物語っていた。
五条は言葉をかけず、そのまま踵を返す。
……誰も、あれから何も訊かない。
どこに行ったのか、なぜいなくなったのか。
ただ、何もなかったかのように過ごしている。
それが彼らなりの優しさだと、わかっているつもりだった。
だが、それでも――
胸の奥に、妙に乾いた風が吹き抜けていく。
中庭へ出ると、草の匂いと、湿った風が肌にまとわりつく。
その一角、がよくいたベンチが見える。
よく彼女がそこで考え事をしていた、あの場所。
五条は、まるでそこに彼女がいるかのように、ベンチに腰を下ろした。
残されたぬくもりなど、とうにない。
だが、風の匂いが――彼女の記憶を連れてきた。
「……」
声に出した瞬間、ふと脳裏によぎる。
――振り返るあの横顔。
風に髪を揺らしながら、少し眩しそうに目を細めて、こう言うのだ。
『先生』
……たったそれだけなのに、胸の奥をどうしようもなく締めつけた。
そして――
最後に交わした、あのキス。
あのとき、なぜ気づけなかったのか。
何を見ていたのか。
――あの瞬間、
「好きだ」と言っていたら、
何か変わっていただろうか。
彼女の手を、少しでも強く掴んでいれば。
(……遅いよな、何もかも)
目を閉じると、まぶたの裏に浮かぶのは、彼女の泣きそうな笑顔だった。
風が、梢を揺らす。
そのざわめきのなかに、彼女の声が混じった気がして――
五条は、もう一度、ゆっくりと目を閉じた。