第19章 Epistle to the Galatians6:5-7
瀬戸さんが振り返って井ノ原先生の顔を見た。
井ノ原先生は頷いて、カップをテーブルに置くと能村さんの前の椅子に座った。
「そういうことなら、うちで娘さんたちを預かるよ」
「そうよ。能村さんうちなら…」
「いつまで、ですか?」
「え?」
ティッシュで顔を拭くと、能村さんは顔を上げた。
「もし治療が長引いたら?……もし、私が死んだら?それでも、預かってくれるんですか?育ててくれるんですか?」
「それは…」
「こんなことなら、検査受けなきゃよかった」
今まで聞いたことのない、低く絞り出すような声だった。
「能村さん、そんなこと言わないの」
能村さんは答えず、虚ろな表情で俺のことを見上げた。
その目はまるで、俺のことを責めているようだった。
検査をするよう強く勧めたのは俺──
それに気づいた時、全身から汗が噴き出してきた
こんな経験は初めてだった
なんでだろう
いつも患者さんにしていることなのに
能村さんが、知ってる人だから…?
「櫻井」
井ノ原先生が立ち尽くしている俺を見ていた。
「ここからは俺と三宅で話をするから、お前もう上がっていいよ」
「で、でも…」
「いいから、翔」
三宅先生が俺の肩に腕を回して、強引に俺をドアのところまで押して歩いた。
「三宅先生っ…」
ミーティングルームの外まで俺を追い出すと、三宅先生はバタンとドアを後ろ手に閉じた。
「いいか?翔、気にすんなよ?能村さん、動揺してるだけだから。あの人だって看護師なんだからさ」
小さい声でまっすぐに俺の目を見て言うと、三宅先生はすぐにドアを開けて戻っていった。
バタンとドアが閉じてしまうと、俺にはどうすることもできなかった。
次の日から、能村さんは出勤してこなくなった。
状況を確認しようと瀬戸さんと井ノ原先生がご自宅を訪れたが、何度行っても不在で警察に行方不明の届けを出したということを聞いた。
更にそれから1週間後──
能村さん親子がN県で遺体で見つかったと、警察から連絡が入った。
無理心中だったという。
【第19章 Epistle to the Galatians6:5-7 END】