第1章 微笑―月下の君―
その日、禪院甚爾はある郊外の道を歩いていた。
久々の仕事だ。
もちろん表には明かせない裏社会のもの。
依頼内容はある洋館の主人の抹殺だ。
なんでも曰く付きの絵画に魅了され、狂ってしまったようで、何を言っても聞かないし、止まらない、しまいにはこちらに危害を加えるようになったという。
依頼人はその主人の配偶者というから、よほど恨みを買ったらしい。
夫婦喧嘩の延長か、
……まぁ、もらうものはもらっているから文句はないが。
しかしなぜ術師殺しと名高い甚爾にこんな仕事が舞い込んできたのか。
話を聞いた限りでは館の主人を殺すのは別に自分でなくても十分可能だった。
問題はこの洋館自体に張り巡らされた幾重もの結界。
洋館周辺には主人の操る呪骸が無数に放たれており、外から1つずつ結界を解除するのは困難を極める。
だから甚爾に話が回ってきたのだ。
天与呪縛のフィジカルギフテッド。
彼の肉体には呪力が全く無く、そのため結界に阻まれることなく自由に洋館に出入りできる。
結界の解除に手間取り、主人に勘づかれて警戒を強めるよりはいち早く決着させたいというクライアントの要望、と仲介人である孔 時雨から説明を受けていた。
「『微笑―月下の君―』ねぇ……」
資料として開示された曰く付きの絵画には微笑む女性が描かれている。
ぬばたまのような艶やかな長い黒髪、肌は透き通る陶磁器を思わせる白さで形の良い唇に差された紅がよく映える。
これが人を狂わせる絵画か。
画像だから特に何の影響もないが、本物は直接見ない方がいいだろう。
気づかれないように洋館に潜入、主人を殺して遺体を持ち帰る至ってシンプルで簡単な仕事。
仕事終わりに美味い飯でも食うか、と思案しながら歩いていると、木立を抜けた先に目標の洋館が見えてきた。
まさかその先に思いもよらぬ縁が待っていることを、この時の甚爾は露ほども考えていなかった。