第8章 ただの勘違い
あの日のことは特にお互い触れなかった。
仕事の話はもちろんするし、用があれば家に行くこともあった。
その時は一人で行くので、降谷さんに会うことはなかったのだが。
ーー…ただ、キスするんじゃないかってくらい近くで、押し倒してしまって、腰に当たっていた大きな降谷さんの手のひらとか、そういうのがふとした瞬間思い出してしまっていた。
席について、仕事のメモを取る。
サラリーー…
私の耳の横の髪が垂れてきて、視界に入ってきた。
降谷さんが触れた場所……。
「うぅーーうがっ!」
「なんだよ。」
「…別に。」
横にいる高橋に驚かれたが気にしない。
「最近なんか変じゃね?」
「気の迷い。」
「はぁ?なんだこの前の合コンでいい男でもいた?彼氏でもできたか?」
「出来るわけないでしょ!あー!もう!こんなもの!」
私は引き出しからカッターを取り出し、降谷さんが触れた髪の毛を1束掴むと切り落とした。
「お、おい。どうした。」
「…別に。」
切った髪の毛をぽいっとゴミ箱に入れ、私はパソコンを開いた。
ーースッキリした。
切ったところがぴょこっと出てしまってるからあとで綺麗に整えようと考えながら、午後からの仕事は集中できた気がした。
そう。
ただの気の迷いだ。気のせいなのだ。
よく思い出せ、睨まれ急かされパワハラ並みの仕事量を任される日々を…。
「夏目。」
ーー…そうだ。いつも名前呼べば前に頼んでた仕事がすぐ出来てると思ってるんだ。うちの上司は。
そんなさ、任された仕事をこっちの他の仕事のスケジュール関係なしにすぐ終えて貰えると思ってるのがそもそもおかしいのよ。
「夏目。」
「あーもう、ほんっとうるさい。そんなだから彼女出来ないんじゃん。」
「ほぉー?」
真後ろで声して、私はびくっとタイピングの手が止まった。
横に座っていた高橋は無駄に携帯を取り出し、難しい顔をしながら席を離れた。
ーーあいつ逃げたっ。