第16章 河上万斉《aishi》※つんぽ
廃れた港町。
停泊中の船の中から、万斉は陸へと足を下ろした。
江戸に向かうとの高杉の命により、この港へと着港したのは昨日のこと。
(……いい歌声でござるな)
万斉は耳を傾けた。どこからか、伸びのいい歌声が聞こえて来る。
声をたどると、ビットの向こうにその姿はあった。
水面上に素足を放り投げ、少女は天を仰いで歌っていた。
透明感のある歌声に、心地のよいビブラート。
その美しい声音は、瞬く間に万斉の心を捕えた。
《aishi》
「そうじゃない。そのリズムは――」
つんぽは三味線を奏で、リズムを示す。
「――こうでござる。もう一回」
○○は言われた通り、同じフレーズを繰り返す。
何度も同じ箇所で止められ、同じ注意を受ける。
最良の作品を市井の人々に届けるためには、妥協は許されない。
「もう一回」
――拙者がプロデュースするアーティストとして、デビューするでござる。
江戸郊外にある、母の実家近くの港で、○○はその男に声をかけられた。
男は『つんぽ』と名乗った。それは、○○でも知っている程の有名な音楽プロデューサーだった。
幼い頃から、○○は歌うことが好きだった。だが、自分に才能があると思ったことはない。
突然のスカウトに戸惑う中、有無も言えぬままにスタジオへと連れて来られた。
強引にレッスンを始めたかと思えば、あっという間にデビューの算段までもがつけられていた。
すべて、○○の了解を得ぬままに。
デビューをすること自体は嫌ではない。ただ、自分が公の場に出ることには抵抗があった。
それならばと、素性を一切明かさずに活動することを確約し、○○はデビューすることになった。
このつんぽ自身、本名も顔も一切明かさず、謎の人物として活動している。
○○は、この男の本名を知らない。