第88章 幸せを願う
(第三者目線)
場所は江戸城下の古屋敷。
男「母上、ただいま帰りました」
女「おかえりなさい。お勤めご苦労様でしたね」
男「家康様が京へ赴いているせいで江戸城は少し閑散としておりました。
しかし徳生様と時継様がおられるので、政務は滞りないようです」
女「そうですか。家康様は良い家臣に恵まれておられるのですね」
女は若い頃はさぞかし美しかったであろう容貌をしていた。
薄く笑う仕草やゆっくりとした口調には品があり、なぜ隙間風が吹く古屋敷に住んでいるのかと疑問に思うような女だった。
壮年の息子には妻子が居て、今は畑仕事に出ていた。
男「母上、昨日くじいた足は大丈夫ですか?」
女「ええ。腫れもひいてきたので明日には野良仕事に出られそうよ」
女の右足首はさらしで固定されている。
男「あまり無理をしないようにしてください。
母上はもともと身体が強くないのですから」
女「このくらい平気です。それに怠けていてはあなたの父上に怒られてしまいます」
女の目が棚に飾ってある人形を見る。
女の夫によく似たくまの人形と、桃色の着物を着たくまの人形だ。
産後の肥立ちが悪く、実家で療養していたところ、夫が不審な死を遂げた。
知らせを受けて直ぐ、今は亡き豊臣秀吉がこのくまの人形を持って訪ねてきた。
安土城の天主に飾られていたもので、舞姫が安土の武将を想って贈ったものだと説明された。
秀吉『この人形を信長様と思い、どうぞ心を強くお持ちください。
姫様は1人ではありません。あの方の尊い血を、どうぞお守りください』
信長を心から崇拝していた秀吉の顔も、心配になるほど青ざめていたが、そこはさすが武将。
一切の取り乱しを見せず、淡々と逃避の手伝いをしてくれた。
秀吉「信長様を討ったのは光秀ではありません。
犯人はわからず、得体のしれない動きがつきまとっております。
ですが世間では光秀と姫様は親戚筋です。何か危害が及ぶ前に姿を隠してください」
その後秀吉が天下人となり、良いように追い払われたのではと思った時もあったが、年に数回、差出人不明の贈り物が届き、それは秀吉が亡くなるまで続いた。