第12章 好きなもの
そうして能楽が始まるとはもちろん、杏寿郎も食い入るようにそれに夢中となっていった。
そんな中で繋がれたままの杏寿郎の手の力が僅かに強くなりがそちらに意識を向けると、まるで昔の思い出を思い出すような切なくも幸せそうな表情が瞳に映る。
(お義母さま、こんなにも杏寿郎君は幸せなお顔をされています。私も1度お会いしてみたかったと……心から思います)
静かな室内に響く太鼓の音や詩。
物語の情景を如実に表す演者の舞に視線を戻しつつ、煉獄家にとって大きな存在であった杏寿郎の母親……瑠火に想いを巡らす。
(この笑顔を必ず守ります。……きっと私の方が先にそちらに向かいますので、その時は沢山お話を聞かせてくださいませ。それまでに杏寿郎君からお義母さまのお話をきかせていただきます)
手を握っていない方の手で自分の下腹部を優しく撫で、は再び全意識を能楽へと戻していく。
それから杏寿郎の手の力が強くなると強く握り返すだけにとどめ、今日の能楽の演目である羽衣を目と記憶に焼き付けていった。
その物語は杏寿郎が教えてくれた通り、穏やかで優しい気持ちになれるものであった。