第32章 姫さんと狐の夜*
かぽーん、と効果音が付きそうなほどに良い湯加減の温泉だ。
長湯が苦手な華音でもゆっくり浸かれそうである。
すぐそばに光秀がいなければ。
「目も合わせないとは、寂しいことをする」
「結構限界なのですが」
「限界を越えるのはお前の得意分野だろ」
「合理主義の貴方の言葉とは思えない」
華音と光秀は背中合わせで湯に浸かっていた。
長引けば長引くほど不利になると踏んだ華音の判断は早くて賢かった。
さっさと脱いでさっさと身体を洗って湯に浸かったのだ。
光秀としては焦らして揶揄うことができなかったのは残念だが、華音が襦袢を着ることも大きい手拭いで身体を巻くこともしない(現代で言うところの裸以外は邪道派)のは運が良かったと煩悩まみれなことを思う。
ほとんど背側しか見えなかったが、華音の絹のような肌は筆舌に尽くしがたいほどに美しく艶めかしかった。
安土城で華音の湯浴みを担当する女中がいない理由がよく分かる。
本人が断っているのもあるが。
「……だがやはり、少し物足りない」
「え」
光秀が大人しくしているわけもなく、後ろを振り向いて華音の腰を抱き、華音を自分の方に振り向かせて唇を塞いだ。
「……っ」
華音が光秀とキスするのは初めてではない。
驚きはしたが怒ってはいない。
では何がダメかといえば、2人の間に隔てるものが何もないからだ。
光秀の腕は華音の頭と腰に回され、お互いの肌がぴったりとくっついている。
光秀の鼓動すら響く気がして、頭がくらくらする。
本当は合わさる肌も光秀の鼓動も、唇も心地いい。
だがこのままはだめだと、口の中に光秀の舌が入る寸前に止まって光秀の胸を押して顔を離した。
反動でぱしゃりと湯が立つ音が響く。
「ここは、いやだ」
「…何を恐れている」
「……月が、見ている」
月が華音にとってどういうものなのか知っている光秀は、その言葉だけで理解した。
「配慮が足りなかったな……おまえが湯に浸かる時間がいつも短いのは知っていたのに」
上半身は若干湯冷めしたものの、身体の中の熱は冷えていない。
湯から上がった2人は部屋に戻り、月すらも見えないように襖はぴしゃりと閉じられた。