第60章 感恩戴徳(かんおんたいとく)
『よろしいのですか。』
のんびりと馬を走らせながら、少し前を行く元就に口羽が声を掛けた。
『文句はねえだろ。信長にも、きちんと筋は通したしな。』
『そうではなくて、ひなさまに会うために、わざわざ、この寒空の中やってきたのでしょう?
もう少しゆっくりされたらよかったのに。』
『お前、名前の通り口に羽でも生えてるのか?べらべらと、よく囀(さえず)りやがる。
安土に来たのは、信長に会う為だっつってんだろうが。』
『…ひなさまに食べさせたいが為に、店の開く前から家臣らを待機させ川通り餅を買い占めたくせに。』
口羽が、明後日の方向にボソリと呟く。
『しっかり聞こえてんだよ。さっさと黙らねえと、その羽、毟り取るぞ。』
『いやいや、羽はございませんが、色々と毮られては困りますので、そういうことにしておきます。』
『なんなんだ、そういうことって。』
ぶつぶつと文句を言う元就に、口羽が声を落として告げた。
『ところで元就さま。例の支城襲撃騒動。誤報で片付けるには、いささか不可解な点がございまして。』
『不可解な点?』
元就は顔から、さっと表情を消す。
『実は、その騒動の際、ある人物を見たと言う者がおりました。
ただの見間違いだろうと気にも止めていなかったのですが、一人ではなかったのです。
その人物を見たと言っている者が。』
『どういことだ。勿体ぶらずにさっさと話せ。』
口羽が僅かに口籠る。
『その者達が見たと言っていたのは、十数年前に亡くなった筈の北条氏康(ほうじょう うじやす)だったと。』
『…なに?』
『いえ、きっと他人の空似でしょう。心配するほどの事では…。』
首を横に振る口羽の言葉を遮って、元就が硬い声で告言う。
『信玄や謙信だって死んだと言われてたがピンピンしてやがる。なまじ嘘とも言いきれねえ。
相模(さがみ)の獅子が息を吹き替えしても、さして不思議はねえってことだ。
口羽、出来る限り急いで城に戻るぞ。皆に伝えろ。』
『かしこまりました。はっ!』
口羽は、勢いよく馬の腹を蹴り、隊列の先頭に走って行った。
『新たな祭りの予感がするぜ。』
空には、これからを予見しているかのような暗雲が垂れ込めていた。