第58章 殊塗同帰(しゅとどうき)
『…んでもねぇよ。お姫さんは行ったか?』
『ええ、元就さまが眠られたので邪魔をしてはいけないから、と先程。』
『そうか。ったく、あの女、なに考えてんだ。
怪我が治ったら絶対に犯ってやる。』
物騒な憎まれ口を叩く元就に、家臣は頬を緩めた。
『口羽(くちば)、てめぇ、なにニヤニヤしてやがる。』
『おや、顔に出ていましたか。これは失礼致しました。
ひなさまの事を話されている時は、表情が賑(にぎ)やかになられるのが嬉しくて、つい。』
口羽と呼ばれた家臣が深々と頭を下げる。
『なんだそりゃ。それを言うなら普通「表情が穏やかになる」とかじゃねぇのか!?
なんだ、賑やかって。俺はいつもと変わらねぇ。
つまらねぇこと言ってんじゃねぇぞ。』
口羽を睨んだまま、元就が冷ややかに告げる。
『そうですか?ひなさまといらっしゃる時は、怒ったり紅くなったり。
素顔が垣間見えて、普段の作った笑顔より よっぽど好感が持てました。』
『な…。』
『煙草、ここに置いておきます。他に御用がありましたら、なんなりとお申し付けください。』
頭を下げて立ち上がり、背を向けた所で立ち止まる。
『あぁ、そうそう。ひなさまからご伝言で、「今は体に障るので煙草はひかえてください」とのことですよ。では。』
そう言い残して口羽も広間を去った。
いっとき口を開いたまま固まっていた元就は、口羽の置いていった煙草に手を延ばす。
そして、顔が映り込むほど磨かれた煙管(きせる)に葉を詰めた。
『…。』
と、おもむろに煙管を放る。乾いた音が、静かな広間に響いた。
『ちっ。』
舌打ちをして布団に潜り込むと、腫れ物にでも触れるように額に手をやる。
(ひなに触れられるのも触れんのも、やっぱり不思議と嫌じゃ無ぇ。それどころか…。)
自分とは縁遠い感情に気付かないふりをして、元就は無理矢理 目を閉じた。
※口羽〜口羽 通良(くちば みちよし)
毛利氏の重臣。吉川元春、小早川隆景、福原貞俊と共に御四人の一人と言われる。