第88章 夜には、私の名前を呼んで〜明智光秀〜
………
その日の夜はいつもと様子が違った。
私が目の前にいるのに
光秀さんは、しばらく黙っていた。
灯りが揺れて、影が畳を這う。
その影が、ゆっくり私に近づく。
「……何度言わせるつもりだ」
お腹に響く、低い声。
「言葉で縛られたいと言う割に、
お前は、今にも逃げ出しそうな顔だ。
ここから逃げたいのか?」
「……逃げたくありません」
「なら、なぜ泣きそうな目をしている」
図星だった。
「嘘だって、わかっているからです」
私の声は、思ったよりも震えていた。
「愛してるなんて。
本当じゃないって、ちゃんと知ってます」
光秀さんの気配が、すぐ近くなる。
「それでも——
その言葉が欲しいんだろう?」
返事ができなかった。
息遣いが、耳にかかる。
「……救われる気がするから」
始めは、少しでも私の存在をあなたに刻みたかったのに。
今、私はあなたに切り刻まれている。
「お前は、本当に……」
小さく息を吐く音。
次の瞬間、
低い声が、耳元に落ちた。
「……葉月」
名前を呼ばれただけで、
涙が溢れた。
「…愛している」
——うそつき
でも、そんな嘘をつかせているのは
こんな風に嘘をつくあなたを愛してしまったのは、私なんですね。
嘘だと、わかっている。
わかっているのに……
私の方が愛してしまった
こんなにも深く
私は、その夜、
初めて声を殺して泣いた。
もう二度と、光秀さんの部屋には入れない。