第9章 人の気も知らないで
だが今は、咲にとって最も安心できる場所にいる。
それは、杏寿郎の隣だ。
杏寿郎が側にいてくれれば、どんな鬼からも守ってくれるだろうと心から信じられる。
だから咲はつい、ウトウトとし始めた。
咲がこのようになることなど、本当に珍しい。
「――それでな……」
先日の任務先であった出来事を話していた杏寿郎は、ポスンと何か柔らかいものが肩に触れる感触に、おや、と思って目を落とす。
見てみると、すっかり眠ってしまった咲が、杏寿郎にもたれかかるようにしてスースーと可愛らしい寝息を立てていた。
その寝顔はまるで幼い子どものようで、千寿郎がもっと小さかった頃のことを思い出させた。
その安心しきったような寝顔を見下ろして、杏寿郎はにっこりと微笑む。
ふっくらした白い頬がとても滑らかそうに見えて、つい、指でスリと撫でてしまった。
「ん……」
すると咲は、赤子がむずかるようにモゾモゾと身じろぎをしたかと思ったら、きゅうっと杏寿郎の着物を握り締めて、再び小さな寝息を立て始めた。
「やれやれ、人の気も知らないで呑気なことだ」
杏寿郎は苦笑すると、咲の体を抱き抱えて立ち上がった。
(うむ!やはり羽のように軽いな!咲もそれなりに食べているのに、一向に重くならんな。……だが、我が家に来たばかりの頃に比べれば、随分と大きくなった!)
腕の中でスヤスヤと眠る咲。
その小さな唇を見ていると、杏寿郎の胸にモヤモヤと抑えがたいような気持ちが沸き上がってくるのだった。
今すぐにでも、この桜の花びらのような唇を思い切り吸いたい。
(む!いかん、いかん!そのようなことは決してしない!……仇を討ち、咲と夫婦になるまでは)
そうは思っても、なかなか腕の中の温もりを離し難い杏寿郎は、出来るだけゆっくりと廊下を歩いていったのだった。