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夕顔

第2章 思い出さなくても良い思い出もある





銀時に近づくに比例して、いつもは輝きを失っている瞳が大きく見開かれていく。

それに気づいていながらも、彼女は何も声をかけず瓦へ足をつけた。

すると神威がこちらに振り返る。
いつもなら一言二言絡んでくる彼だが、今回は珍しく黙って屋根の端へ下がっていった。

目を瞑り、太陽へ届かぬ手を伸ばす鳳仙の側に、皐月はそっと日輪を下ろした。そして彼女もまた、静かに下がる。

そんな様子に神威は内心面白がっていた。
普段殺しを殺しとも思わぬ、何にも心動かさず、ただ孤高に戦場に立つ彼女をいたく気に入っていたが、こんな行動に出るとは思いもしなかった。彼女もまたあの侍の存在に何かを感じたのだろうと思い、その原因たる者に目を向けて、神威は思い直した。
男と女の関係に口出しは野暮だというが、こりゃ二癖も三癖もありそうだと、ほくそ笑んだ。


一方皐月は、これでもう仕事も役目も終わったと、二人を眺める。


皐月には、鳳仙の心情が痛いほど理解できた。
焦がれるものに手が届かず、乾いていく心。それが何たるかを戦場は教えてはくれない。そこではただ、奪う事、壊す事しか学べないのだ。夜兎の通る道には、一片の生も残らない。いざ目の前に何かが現れても、それが自身にとって特別な何かであったと気付けるのは、いつもそれを跡形もなく壊しきった後なのだ。


旦那は生の殆どを戦場で過ごしてきた、夜兎の中の夜兎。
太陽の下、太陽に抱かれ、彼は死際に何か得られただろうか。

皐月はそっと銀時の方へ視線を向けた。
すると、銀時の方も此方をずっと見ていたようだ。ばちん、と音がなる勢いで視線が絡む。まだ会えない、会ってはならないと思いながら、いざ彼の目に止まればこんなにも、身体を焼かれるような痛みが走る。それはきっと彼が僕を嫌い、恨んでいるせいだからと彼女は思った。

もうここにいる意味はない。
皐月は音もなく銀時に背を向けると、その勢いのまま向かいの建物の屋根へ屋根へと三軒ほど移り、姿を消したのだった。


銀時の瞳から逃れ、薄暗い道を歩きながら息をついた。
長年にわたり、彼と再会した時に言う言葉を彼女は考え決めていたが、結局その一言は言わず仕舞い。540円はきっともう彼女の手に戻ってくることはないだろう。

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