第1章 鉄砲雨
どんよりとした雲が空を覆った時、微かな雨の匂いが私にまとわりつくことがある。
その匂いは私に惜しみなく愛を注ぐ優しい母親のように、時に厳しいが、いつだって家族を護ってくれる父親のように、私を包み込んで安心させた。
私は雨の匂いが、また、その匂いを運んでくれる雨が大好きだった。
大好きだったのだ。
私の世界が崩れ落ちた、あの日までは。
あの日も、太陽の光など一切届かない分厚い雲が空を覆い、優しい雨の匂いが満ちていた。
私の家は町外れにぽつんと立っている一軒家で、貧乏ながらも家族三人で慎ましく暮らしていたどこにでもある家庭だ。
家族がいるのも、幸せな日々が続くのも当たり前で、それが壊れる日が来るなんて思ってもいなかった。
「ただいまー」
半年前のあの日、私が出先から帰ると、いつものように出迎えてくれる母の声がしなかった。
珍しく家にいるはずの父の声もしなかった。
外に出かけているのかと考えたが、外履きは全て揃っているし、家の中から僅かに物音がするから誰もいないということは無い。
なにかがおかしいと訝しんだ私は、あまり物音をたてないように物音が聞こえる部屋をそっと覗いた。
「ヒッ……」
襖から見えた景色に驚愕を隠せなかった私は、喉を震わし腰を抜かす。
襖の先にあったのは、真っ赤に染まった畳と壁、そして、変わり果てた父母と思われる肉塊とそれを喰らう人のような形をしたナニカ。
今まで音を立てないようにしていたのはなんだったのかと思わざるを得ないほど簡単に、私の存在は襖越しに居たナニカに認識された。
「まだ居たのか、今日の俺は運がいい」
私を見てそういったナニカはニタリと口角を上げて立ち上がろうとした。
瞬間、命の危険を感じた私は弾かれたように走り出す。
抜けていた腰を無理やり奮い立たせ、はだける着物も気にせず、我武者羅に走った。
途中、足がもつれたり、つまづいたり、転んだりしながらも絶対に足はとめなかった。
分厚い雲からはいつの間にか大粒の雨が降っていて、私はずぶ濡れになりながら町に向かって走った。
とにかく人がいる所にと思ったが、かたやへっぴり腰の齢十になったばかりの少女、かたや異形の化け物。
見晴らしのいい田舎道ではそう長く逃げ続けることは出来なかった。
もうダメだ、殺される……
そう思った時、雨とは違う水によって、化け物の首が弾け飛んだ。