第1章 意義
思えば、俺は恋などしたことなかった。
この世に生を受けたときから、世界はカバネに浸食されて混沌としていた。
そして幼い頃から、両親はお前の存在意義は誇り高き四方川家と顕金駅の民を守るためにある、武士として生きることが務めだ、と説いた。
年を重ね、恋というものの存在を知った時も、どこか遠いもののように感じる俺がいた。
おこがましくも、菖蒲様を美しいと思ったことはある。
しかしそれは、恋と呼ばせていただくにはあまりに頼りない感情であった。
瑠璃色の石や、繊細な刺繍の入った服を見て美しいと思う。
それと同じようなものだった。
女性として美しいと思う…
そうではなくて、人間としての美しさを感じているというほうが正しかった。
それに畏れ多い気持ち、ただただ尊ぶ気持ち、そういう感情がそれよりもずっと大きかった。
そして何よりも、いつ死ぬかわからない俺はきっと愛する人を傷つける。
今まで何度も、夫や妻、恋人を失い泣き叫ぶ民を見てきた。
そんな光景を見るたびに、強く思った。
そんな気持ちを、愛する人に絶対に味わわせたくない、と。
ならば、愛する人など作らなければよい。
そんな環境と気持ちであったから、恋とは無縁な人生なのだと思っていたし、俺はそれでも良いと思っていた。
四方川家を守り、そして己の剣術を突き詰めていく。
それこそが、俺の存在意義、生きる意味なのだと。
そんな中、彼女に出会った。
突然俺の心の中に飛び込んできて、心の中をかき乱した。
そして俺は、恋をした。
恋とは、温かく穏やかなものだと思っていた。
柔らかい日差しが差し込む中で、甘味を丁寧に舌で味わうように。
干したばかりの布団に滑り込みまどろむ午後の日の様に。
しかし、現実の恋というものは違っていた。
俺の中に、こんな激しい感情があると知らなかった。
豪雨が激しく甲鉄城を打つように。
風が植物や家をなぎ払っていくように。
炎が高く上り、すべてを焼き尽くしていってしまうように。
指先が触れるだけで気が狂いそうになるだなんて、知らなかった。
愛おしい過去を、時折俺は回想する。
俺がまだ彼女を知らなかったころ。
そして出会った後の、激動の日々を。