第6章 夢見心地のマドレーヌ
「料理はお出しすることは出来ませんが、飲み物なら出せます。せっかくご来店して下さったのですから、宜しければなにか口になさってください。」
わざわざ仕事終わりに立ち寄ってくれたのに、なにも出さず、何のおもてなしもなく帰ってもらうのは、申し訳ない。
今からなにか料理を作ることは、さすがにもうできないが、飲みもの一杯くらい振る舞う余裕はある。
店長の森が言うならばと、杏奈は目の前で、森の言葉に甘えようか、断って今日はこのまま帰るべきか、悩んでいる松田にさぁどーぞと声を掛けた。彼女お得意の有無を言わさぬ態度である。
もうすっかりおもてなしするつもりで、今日は何にしますかぁ?と問いかけてくる杏奈に、松田は諦めたように溜息を吐いて、カウンターの一番端の席に腰をおろした。
「紅茶。いつものやつ、頼む。」
腰かけた松田は、メニュー表も見ずにそう告げた。
しかしそれだけで彼が望んでいるものを理解した杏奈は、承りましたーと、へらりとゆるく微笑んで、カウンターの中へ入っていく。
しばらくして、お待たせいたしましたーと、杏奈は紅茶の注がれたティーカップを、松田の前に置いた。
松田はさっそくカップに口をつけ、鼻腔から抜ける甘くスモーキーな香りに、ふっと松田は口許を綻ばせる。
穏やかな微笑を浮かべる松田をみて、杏奈はへらへらと嬉しそうな、緩んだ笑みを浮かべていて。それに気づいた松田が、何だよと目を眇めると、彼女はやっぱり嬉しそうに笑った。
「いやぁ…すっかり気に入っていただけたみたいで、よかったなぁって思いましてー。」
松田が口にしているのは、あの雨の日に、杏奈が淹れてくれた、ラプサンスーチョンと、カラメルティーを配合した、杏奈オリジナルのブレンドティーだ。
あの日、松田のことを思って彼女が淹れた紅茶を、松田はいたく気に入り、杏奈がいるときは必ず注文している。
あの時は、まさかこんな風になるなんて、思いもしなかったなぁ。
あの日かぎりの付き合いだと思っていた松田が、まさかの二度目の来店をして、そして常連となり、こうして杏奈の淹れる紅茶を飲んでいる。
人生なにがあるか分からないもんだなぁと、杏奈は使い古された言葉を思った。まさに、事実は小説よりも奇なり。