第9章 ロシアン月餅ルーレット
……松田さんの匂いにそっくりだぁ。
辺りいっぱいに立ち込めるのは、甘くスモーキーな大人の香り。
杏奈の頭に、バイト終わりに松田に自宅まで送ってもらった、あの夜のことが蘇る。
今までになく近い距離で感じた、松田から発せられるどことなく甘く、スモーキーな香りは、このブレンドティーの香りに酷似していて。
スプーンで軽くひと混ぜすると、更に色濃く香りたつ。
辺り一体にたちこめる匂いは、まるで松田に抱きしめられているようで、なんだかくすぐったい。
けれど杏奈はこの甘い大人の香りが、嫌いではなかった。
むしろ不思議と安心できて、心があたたかくなって、ひどく心地よい。
松田のそれと酷似した香りを、いっぱいに吸い込み、杏奈はうっとりと、とろけるような表情を浮かべた。
なんつー顔してんだ、アイツ。
多幸感につつまれ、とろけるようなユルユルの笑みを浮かべる杏奈。緩みきってだらしのない顔だが、その笑みが松田は嫌いではない。
幸せを前面に押し出したそれを見ているだけで、不思議とこちらまで、心があたたかく穏やかになるのだ。
現に杏奈を見守る松田のまなざしはやわらかく、とても穏やかである。
そんな松田と杏奈の表情を交互にみて、店長である森もまた、穏やかに微笑んだ。
杏奈は自分に向けられる穏やかな眼差しには気づかず、温めた茶漉しで茶殻をこしながら、ティーカップに香り立つ紅茶を注ぎ込む。
最後の一滴までしっかりとカップの中に注ぎ込むと、ぴちょん…っと、琥珀色の王冠が水面に浮かんで溶けた。
うーん。カンペキな仕上がり。
杏奈は満足げに頷いて、キラキラと達成感に満ち満ちた表情を浮かべる。
「っはは……!」
彼女の様子をみていた松田は、耐えきれず僅かに笑い声を漏らした。
どんだけ紅茶好きなんだよ……。
常の杏奈はどことなく眠そうで、無気力にぽけーっとしていることが多い。
しかし紅茶を淹れているときは、普段の様子などまぼろしかのように、その瞳はキラキラと光を帯び、幸せそうでとても活き活きとしているのだ。
そのギャップが可笑しくて、思わず笑ってしまう。
けれどそのギャップさえも、彼女の魅力である。
改めて松田は杏奈をみてると飽きないと、本当に面白いヤツだと楽しそうに笑った。