第9章 ロシアン月餅ルーレット
「あれ~?朝から珍しいお客さんだぁ。」
目をぱちくりさせる杏奈に、松田はどうしてこうなったと内心こぼした。
本来降りるはずの自宅の最寄り駅の手前——米花駅で下車してしまった松田は、目的もなく歩いていたのだが、もうすっかり足が覚えてしまっていたのだろう。気づけばモリエールの暖簾をくぐっていた。
朝からやっているのは知っていたが、今まで松田は仕事帰りや、休日の昼過ぎにモリエールを利用していた。
この時間帯にはじめて訪れた松田に、杏奈は明日は槍が降るのでは?と失礼なことを思う。
「昨日ぶりですねぇ。とりあえず、お席へどーぞー。」
代わりに当たり障りもない言葉を口にして、杏奈はスッと松田に席をすすめる。
しかし、正直モリエールにくるつもりのなかった松田は、何事もなかったかのように帰りたい気持ちだった。
だが同時に、ここまで来てしまったのならば、杏奈の淹れた紅茶を飲みたいとも思うわけで。
紅茶一杯だけだ。
それだけ口にしたらすぐに帰ろう。松田は観念したように、小さくため息を吐くと、薦められるままいつものカウンター席に腰をおろした。
「………、……ん~??」
一度カウンターに行って、水の注がれたグラスとメニュー表を手に、松田の元へきた杏奈は、違和感にうなる。
宙をみたまま考え込む杏奈に、どうした?と松田が声をかけると、彼女は宙へ向けていた視線を松田に移した。
じっと自分をみつめる澄んだ碧の瞳に、居心地が悪くなり、松田はなんだよと眉間にしわをよせる。
しばらく松田をみながら、違和感の正体を考えていた杏奈だが、喉の奥まで出かかっているのに、それは寸でのところで出てこない。
魚の小骨が引っかかったようで気持ち悪いが、すぐに出てこないことをいつまでも考えていても仕方がない。
「なんでもないでーす。はい、こちらモーニングメニューでーす。」
へらりと微笑んで水の入ったグラスを置き、朝の時間帯用のメニュー表を差し出す杏奈。
誤魔化されたような気がして、眉間のしわを深くする松田だが、彼女が言わないと決めたならば、絶対に言わないことも分かっている。
「いや。紅茶だけでいい。」
差し出されたメニュー表を受け取らず、松田は端的に伝える。