第8章 月夜のティラミス
杏奈と別れて、駅へと向かっていた松田は、不意にゴン…っと電信柱に頭を打ち付けた。
「いや……、可笑しいだろ……。」
松田は電信柱に頭をあてたまま、俯き目をとじる。
視覚を遮ることで、強く感じるのは、いつもよりも落ち着きのない自分の心臓の鼓動。
杏奈と別れたときから高鳴った心臓は、そのうち落ち着くだろうという松田の予想に反し、一向に落ち着く様子がない。
落ち着くのをじっと待ってみるも、図書館でみせた扇情的な顔や、別れぎわにみた無防備で気持ちよさそうな杏奈の表情が、次々と思い浮かぶ始末。
落ち着くどころか、心臓は余計に騒ぎ立てる。
……待て待て待て。マジかよ。
ドクンドクンと大きく脈打つ心臓から、送られた血液は、なぜか下っ腹に集まっていて。
下腹部が重たくなるそれは、身に覚えのある感覚。
次第に熱を孕みだしたそこに、松田は思わず舌を打った。
……溜まってんのか?
松田は最近の出来事を振り返ってみる。
ここ最近は仕事か訓練が殆どで、どこかに出かけると言っても、仕事終わりに萩原とふたりで軽く飲みにいく程度だった。
つまり、松田はここ最近、そういった類の接触をしていない。
最後に女抱いたのいつだ……?
松田は更に記憶を探ってみるが、ここ一か月にそれらしいものはなかった。
それどころか思い出されるのは、モリエールで杏奈の淹れた紅茶を飲みながら、彼女とくだらないやり取りをしたことばかり。
今までこんなことはなかった。
性欲が溜まるまえに、街中で声をかけてきた適当な女性と、一夜の関係を持っていたからだ。
それがここ最近は、女性に声をかけられても、軽くあしらうか、女性を置いてモリエールへ向かっていた。道理でと松田は納得する。
そろそろ適当に誰かひっかけるか。
納得したこともあってか、しばらくじっとしていると、次第に身体の熱が引いていく。
落ち着きを取り戻したのを感じて松田は、はぁ……と一度ふかく息を吐きだすと、再び駅へと歩みを再会させた。
『 松田さんに頭なでられるの、好きみたいです 』
熱は引いても、脳内に浮かぶ杏奈の顔が消えることはなく。
松田は彼女に触れた右手を、ギュッと握りしめた。
何かを離さないように。何かに耐えるように。
強く。
ーー 月夜のティラミス ーー