第2章 サルミアッキに魅せられて
「“そしてこの日を境に、この殺人事件は始まったのだ”……。」
「アンさん、そういうのは声に出さない方がいいと思いますよ。」
物騒な発言をする癖のある亜麻色の髪を、低い位置で一つに束ねた少女ーー坂口杏奈に、耳順の年である男性は穏やかな口調でそう忠告して、特にこういう場所ではねと視線を周囲に飛ばす。
男性の視線に釣られて同じく辺りを見回す杏奈の蒼色のタレ目に映るのは、落ち着いた濃い茶と赤の内装で統一された、どこか懐かしいモダンレトロな喫茶店。
店内には落ち着いたジャズBGMが流れている。店長自慢の年代ものの蓄音機は、デジタル社会の今でも現役で頑張っている。
麗らかな休日の昼下がり。
店内は満席ではないが、程よくお客が席を埋めている。殆んどがここの常連だ。
カウンター席に座る常連客の男性ーー山さんは、杏奈と視線が合うと苦く笑う。そこでようやく、彼女は自分がこの店に相応しくないことを口にしてしまっていたことに気付いた。
またやっちゃった…と内心反省しつつ、申し訳ありませんと常連客と店長に頭を下げる杏奈
「いいよ、アンちゃんのその物騒な癖にも、もうすっかり慣れちゃったしねー。今となっちゃ、これもモリエールにくる楽しみの一つだよ。」
山さんはハハっと軽く笑うと、気にするなと言うようにヒラヒラと手を振った。
"純喫茶ーーモリエール"
ここは東都の米花町にある、とある住宅街の中にひっそりと店を構える純喫茶だ。
店長ーー森英介が十年前に一大奮起し、仕事を辞めて開いたのがこの店である。
モリエールは昔ながらの純喫茶スタイルに、英国の紅茶文化を取り入れた一風変わった喫茶店だ。
そのスタイルが広く受け入れられ、また一部のマニアックな客層のも受けがよく、大通りや商店街のある道から離れた住宅街の中に店を構えているのにも関わらず、隠れた名店として紅茶好きを中心に密かに人気を博している。
そしてそこに現れたのが、杏奈である。
もともと大の紅茶党で、偶然立ち寄ったこの店の紅茶とスタイルに感動し、当時アルバイトを募集していなかったにも関わらず、半ば押し切る形ーー毎日のように店に通い、感銘を受けたことを伝え続け口説き落としたーーで一年前からアルバイトとして働き出したのだ。