第1章 名前
俺はマスターを含め、ほとんどの仲間から「ベス」と呼ばれている。敵に知られている可能性が高いのもその名だ。だから俺はこんな任務の時、「ブラウン」と名乗っている……のだが。
切っ掛けは些細なことだった。
泣いている少女を見つけて声をかけた。迷子らしき少女に話をきき、なら一緒に親を探そうとしたところでそれを聞かれた。
「おにいさんのなまえ、なんていうの…?」
油断していた。風に揺れる髪が、柔らかな声が、ほんの少しマスターに似ていたから。彼女の幼少期はこんな感じかと、ふと考えてしまっていた。
「……ベスだ」
フードを外さないまま屈み、目線を合わせて言ってやると少女は嬉しそうに笑った。何がでもなく、その愛らしい笑みにふとこちらの頬も緩んで、他愛ない話をしながら手を繋いで親を探した。
無事親元へ連れて行き、繰り返し礼を言ってくる母親に短く返事をして任務へ戻ろうとした時だった。
「ベスおにーちゃん、またね!」
幼い少女特有の、高く通る声で呼ばれた名前。
平静を装って歩き出す、その背後で聞こえる会話。
「あら、あのお兄さんベスさんっていうのね」
「うん!優しくってかっこよくって、きれいな青いおめめなの!"きしさま"みたい!」
…名前を教えた時、屈んで目線を合わせた。その時か。
失敗した。名前と目の色…きし、はどうだろうか。世界帝の支配下にあるこの場所で、勘づかれないとは限らない。あの家族に口止めしに戻れば不信感を与える……一度戻って代わりの誰かに潜入してもらった方が安全だろう。
唇を噛み締めて基地へ向かった。最も安全と調べられたルートで……この失態で頭を埋めつくしながら。