第1章 思ひ出話
そうね。本当に、今夜の月は綺麗ね。
なんだか思い出すわ。
昔ね、そう、貴女よりもっと若い頃に、こうやって、静かに月を見上げた夜があったの。
誰とって?そうねぇ、少し好き、いえ、憧れていた人と。そんな顔する事ないでしょう。そりゃあ私だって、今はおばあちゃんだけど、恋する乙女の時代だってあったもの。
ふふふっ。
結婚する前の話よ。もう時効ね。何十年も昔だもの。でもなんだか恥ずかしいから、息子には内緒よ。
その頃私、柳生家にお仕えする女中だったの。あまり要領の良い方じゃなかったから、しょっちゅう女中頭に起こられていたわ。
恐い人でね、ちょっと返事が遅れたり、買い物頼まれた品が売り切れだったりすると、すぐに扇子で叩かれるの。雪の上に正座させら れた事もあるわ。
ひどいでしょう。
そんな時、いつもかばったりなぐさめて下さったのが、柳生四天王のお一人の東城様だったわ。
どんな人?そうねぇ、王子様みたい。笑わないでよ。本当に、紳士的な方だったの。
亜麻色の髪が長くて、目が細いせいか、常に微笑んでいるみたいに見えたわ。
下働きの私なんかにも優しくして下さって。
一度なんか、私の手に東城様自らハンドクリームを塗って下さった事もあるのよ。
そりゃあびっくりしたわよ。
庭で落ち葉を掃いていたら、縁側から呼ばれて、手招きをするからお側へ行ったら、「手を出しなさい」って言われてね。ガサガサの私の手を見て、突然ハンドクリームを塗りだしたの。
「もったいないです」って言っても、静かに首を振って笑うだけで。
東城様の手は暖かくて大きくて、クリームはとても良い香りがして、心地よかったわ。もちろん、恥ずかしくもあったけどね。
クリームを塗り終えても手を放して下さらなくて、私の両手を東城様の両手で挟むようにしたままだった。
私の手にある、あかぎれや小さな傷を治そうとするみたいにね。
ほうきの音がしないから、私がサボっていると思った女中頭が見に来るまで、ただ、そうされていたの。
…その時頂いたハンドクリーム、もうとっくに空だし香りも無くなっているけれど、何だか捨てられなくてね、今もとってあるわ。