第5章 【家康・前編】
秀吉に先手を打たれた口惜しさに、内心舌打ちをした家康だったが、ふと自分が盗み聞きをしていることに気付いて我に返り、踵をかえすと自室へと戻った。
その手には、竜昌に渡そうと思っていた葛湯が握られていた。滋養強壮に効く薬草を入れて、家康が自分で配合したものだった。
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翌朝、信長と地方の大名の謁見に同席していた家康が広間を出ると、そこへ竜昌が正座をして待っていた。
竜昌は家康を見つけると、真剣な顔で話しかけてきた。
「家康さま、無礼を承知でこちらお待ちいたしておりました。少し、よろしいでしょうか」
探していたのは家康も同じだが、昨晩、秀吉と竜昌の会話を聞いてから、胸の中でチリチリとくすぶっていた火が再び燃えあがり、つい不愛想な返事をしてしまう。
「なに?」
「あの…家康様が近々秋津へお越しになると聞き及びました。その折に、私を案内役としてお連れいただくわけにはいかないでしょうか?」
濡れたように輝く黒緑色の眼で家康を見上げ、必死に請う竜昌。秋津のことが本当に好きなのだろう。
「ふーん。それ、秀吉さんに聞いたの?」
「え…あ、はい…」
何故それを知っているのか?というように竜昌は目を見開いた。
「決してお邪魔はいたしません。信長様の許可は頂きました。どうかお願いいたします!」
平伏する竜昌。家康はその姿をつまらなそうに一瞥すると、短く答えた。
「好きにすれば?出立は月があけて六日。家臣は二十人くらいつれていくつもり」
「ははっ!ありがたき幸せ!」
竜昌は顔を上げて破顔一笑した。興奮に目を潤ませ、頬を紅潮させた竜昌の美しさに、家康は目を奪われた。そういえば竜昌が安土に来て以来、こんなに輝いた顔を見たことがないような気がした。
『こんな顔…反則…』
「では、さっそく秋津に先触れの文を書いて参ります!姉様や家老たちに知らせなくては!」
一礼して、転がるようにしてその場を去っていく竜昌の姿が廊下の角に消えるまで、家康は見送った。
胸の火は、まだ熾火のようにくすぶり続けていた。
<第二部 家康・前編 完>