第17章 【信玄編・後編】※R18※
「何が…駄目なんだ?」
信玄の甘い吐息が、竜昌の耳をくすぐる。
「…貴方を、殺したく…ない…」
「そうか…君に殺されるんなら、本望なんだがな。そうしたらもうこれ以上、君の悲しむ顔を見なくて済む」
信玄は壁から手を離すと、そのまま指の背でするりと竜昌の首筋を撫でた。そして、そのままうなじに手のひらを置くと、竜昌の首を軽く自分の方に引き寄せた。
竜昌はギュッと目を瞑りながら顔を背けて抵抗したが、全身が総毛だつのは抑えきれなかった。
「気に食わないのなら、これで俺を突けばいい」
細長い信玄の指が、竜昌がやっとの思いで支えている剣の背を、嬲るように指でなぞった。
「…ほら、心の臓はここだ」
信玄はトン、と親指で自らの胸の中心部を叩いた。その固い胸板には、竜昌が手当に使った晒し布が巻かれている。
「こ、殺すために助けたのではありません」
「じゃあなぜ?今の俺たちは敵同士だ」
「貴方は…こんなところで命を無駄にしていいはずがない」
「りん…」
「故郷を取り返すのではないのですか?貴方についてきた家臣たちはどうするのです?里に残る民たちは、貴方を待っているのではありませんか!?」
「…」
「貴方を慕う者たちへの、それが貴方の答えなのですか…」
目をきつく閉じたまま、自らの嗚咽にかき消されそうになりながらも、竜昌は必死に訴えかけた。
その時、間近に感じていた信玄の体温がふと薄れ、宵の冷たい空気が竜昌を包んだ。
信玄は一歩下がり、竜昌から身体を離していた。
「…いいことを教えてやろう」
「…?」
竜昌はこわごわと薄目をあけて信玄を見た。
そこには、いつもの甘い空気をまとった余裕のある信玄の姿も、甲斐の虎と呼ばれた猛将の姿も無かった。
ただ、迷子になって途方に暮れた子供のように、虚ろな赤銅色の瞳を揺らした、一人の男が立っていた。
「さっき、俺たちに矢を射かけてきた奴らがいただろう。君も見たか、風林火山の幟を」
「…」
竜昌は、無言のまま小さく頷いた。
「あれは なぁ─────身内だ」
「!!」