第15章 【信玄編・前編】
「これをぜひ君に…お近づきのしるしに」
信玄は懐から、一本の花かんざしをとり出した。
かんざしには藤の花を象った飾りがついていて、本物の花房のようにひらひらと風に揺れるつくりになっていた。
『わあ…』
竜昌はその鮮やかな色と繊細な造りに、一瞬目を奪われたが、すぐに視線を逸らせた。
「受け取ってもらえるかな?」
「いえ、このようなものを頂くわけに参りません」
「どうして?」
きっぱりと首を振る竜昌に、信玄は優しく喰らい付く。
「…似合わないから…」
「そんなことはない。これは俺が君のために一生懸命に選んだんだ。きっと似合うはず。俺が保証するよ。ほら、」
信玄は、半ば強引に竜昌の笠を持ち上げようと、手を伸ばした。
「ッ!!」
笠が持ち上がるより一瞬早く、パシッと乾いた音がして、竜昌が信玄の手首を掴んだ。
どうしても笠をとられたくないらしい。
拒絶された信玄は、一瞬、切なげな顔になった。
しかし次の瞬間には、掴まれていた手首をくるりと返して、竜昌の手を握りかえすと、力強くグイッと引きよせた。
そして竜昌の身体を、あれよあれよという間に路地裏に引き込み、そのまま建物の壁に押しつけ、両手で囲うように追い詰めた。
「ンッ…」
突然のことに、慌てて刀に手をかける竜昌。
しかし信玄はまったく動じることなく、そのままゆっくりと壁から手を離すと、その場にひざまずいた。
「信殿…?」
「申し訳なかった、あんな大通りで…」
そう言いながら、信玄は静かに顔を上げ、竜昌の顔を覗き込んだ。
濡れたような睫毛に縁どられた、大きな黒緑色の眼。意志の強そうな、まっすぐに伸びた眉。その頬は、紅を差してもいないのに、淡い桃色に染まっている。
笠の下からまじまじとみる竜昌の顔は、正直、思っていた以上に美しかった。信玄は思わずその目を細めた。
「絶対に似合うと思うんだ…」
信玄は、かんざしをもった手を下から差しのべ、竜昌のこめかみあたりにかざした。
竜昌の視界の端で、藤の花の飾りがしゃら…と揺れた。