第1章 雨の日には 【一松】
小雨がぱらぱらと降る日には
雨独特の香りを引き連れて何かがやって来る。
少し開けた窓の向こうで小さな鳴き声が聞こえる。恋人が家に置いて行く猫缶の封を切ると、外の愛らしい存在へ向かった。
待ってました、とがっつく姿に思わず「そんなに急がなくても無くなったりしないのに。」と独り言を零すと、少しばかりの視線を感じて顔を上げる。視界の隅に恋人の姿。彼を示す紫は雨に濡れて重たげな発色をしていた。
「……一松?」
「…」
返事はない。
待っていられない、と駆け出すと彼の腕を引いて家に招き入れた。ご飯を食べていた猫も、何事かと窓の外で心配そうにこちらを伺っている。
バスタオルを手渡し、拭き始めたのを確認するとその場を離れ台所で暖かいココアを淹れる。
「冷めないうちに飲んでね」と、テーブルへ置いて、フェイスタオルで湿った髪の毛を乾かし始めるも「……何も、聞かないんだね。」と小さく呟かれた。
「一松が言いたくなるまでは良いかなぁって思ってたからね。…なあに、教えてくれるの?」と視線を絡ませる様に覗き込むと、バツが悪そうに俯き「…喧嘩した」とだけ返ってくる。
幼い頃からこの兄弟と一緒にいる身としては、案外起こり得る事だと認識していても、根の優しい彼は口論した後に言い過ぎたと反省してしまう節があった。今回も、きっとそうなのだろうと思っていたから、顔に出さずとも心の中で頬が緩んでしまう。
彼の兄弟に対する優しさが好きで、強がりに見せてしまう癖も好きでどうしようもない程にご執心の私はいつもこうして彼を引き寄せると腕の中に閉じ込めて「大丈夫よ。」と、とびっきり甘やかす。
「…松本。」
「ん、どうしたの?」
「……あんたは、こんな俺、…嫌いじゃないの。」
語尾の下がる独特の喋り方に口許を緩め、いつにも増して弱気な背筋を緩慢に撫でる。
「そんな訳ないでしょ。こんなに優しくて、兄弟思いの一松を嫌いに思うはずないもの。」と極めて緩やかな口調で返すと、張り詰めていた糸が切れたのか、鎖骨に顔を埋めて嗚咽を漏らす彼の姿。
偶にはこんなグズグズな時があってもいい。卑屈な彼が私の元へ来て、違った一面を見せる時があってもいい。その度に寄り添って受け止められる存在でありたい。
雨はいつだって独特の香りと一緒に何かを連れてくる。