第3章 『湖上』
「帰るぞ」
「面倒臭いから泊まろうかと思ってた」
「家で寝ろ。送ってやるから」
やだやだと駄々っ子のように椅子から動こうとしない泰子に、中也はため息をつく。
「ここで泊まるなら俺も泊まるからな」
「あ、じゃあ中也の家に行けばいいじゃない」
「は?」
「私の家より近いし、中也も送る手間が省けるし、ほら一石二鳥じゃない」
驚きを通り越して固まってしまっている中也を余所に、泰子は身支度を始めている。
何度もお互いの家を行き来している二人だが、今迄泊まるということはなかった。
暫く固まっていた中也だったが、早く、と手を引かれ一気に現実に引き戻される。
「手前、誘ってんのか?」
「莫迦じゃないの?」
「あーそうだな、聞いた俺が莫迦だった」
二人は中也の車に乗り込むと中也の家へと向かう。少し車を走らせればすぐに到着した。
体を仰け反らせそうな程見上げなければ、上の方の階まで見えない高層マンション。
中也はそこに住んでいた。
「中也、鍵」
「少しくらい待て」
マンションのオートロックを解除する機械の前で泰子は片手を伸ばしながら鍵を催促する。
中也は外套からカードケースを取り出し、そのまま機械へ当てる。ピロン、という電子音と共に自動扉が開き、二人はエレベーターへと向かった。
「ねぇ、合鍵とかないの?」
「部屋に戻ればある」
「頂戴。私のもあげるから朝早い時起こしに来て」
そう言うと彼女は中也のベルト通しについていた、車の鍵がつけられたキーリングに、自分の家の合鍵を取り付けた。
チャリン、と車の鍵と家の鍵がぶつかる。
中也はまじまじとその鍵を見つめた後、「部屋に着いたらやるよ」と一言言ったのだった。
「お邪魔しまーす」
高層マンションの最上階。1番見晴らしの良い部屋。
開けたままだったカーテンの奥には、ヨコハマの夜景が広がっている。
「中也、ただいまは」
「は?なんでだよ」
「いいから」
「──ただいま」
「おかえり」
自分の家に帰って来て、誰かにおかえり、と言われたことなどなかったなと中也は考えつつ、たまには悪くないなと内心で思っていた。