第92章
コン、コン。
二回。
病室の扉をノックした。
彼女からの返事はない。
ーーーまさか。
そんな考えが頭をよぎり、返事を待てずに病室へ足を踏み入れた。
「…深晴」
彼女は、そこにいた。
無味乾燥な病室には、彼女一人だけ。
彼女は窓際に置いてあるパイプ椅子に腰掛けたまま、大きな窓の方へと体を向けている。
彼女に振り向いて欲しくて。
相澤はその場に立ち止まったまま、彼女の名前を繰り返す。
深晴、と。
何度呼びかけても。
彼女は一切の反応を見せない。
やはり、待ち切れなくて。
相澤は足早に彼女の方へと近寄り、背後から彼女を抱きしめた。
『………消太にぃ』
その呼び声と、愛称が。
この上なく愛おしい。
懐かしい彼女の髪の香りに。
相澤は腕に力を込め、囁いた。
おかえり、と。
耳元でその言葉を告げたところで。
彼女は黄昏色に染まった窓の外を眺めたまま、振り返ろうとはしてくれない。
相澤が期待した言葉を使わずに。
彼女は視線を落とし、うつむきがちに呟いた。
痛いよ、と。
言われてようやく思い出し、相澤は彼女の背中に触れていた自身の胸元を後ろへ引いた。
なら、こっちを向いてほしい。
相澤がそう打診する言葉を聞いて。
彼女は視線を合わせないまま、首元に絡みついた彼の腕に、自分の片手を置いた。
五指で何かを確かめるように。
服の上から、彼の腕に指を軽く引っ掛けて。
彼女はようやく、相澤と視線を合わせた。
人知れず。
唇を重ね、想うのは。
「彼」のこと。
「………今」
誰のこと、考えてる。
そう問いかけられ、向は答えた。
『…友達のこと』
随分と仲が良いんだな、と。
全てを分かっている大人が、分かっていないような言葉を口にした。
『…ちょっとだけだよ』
「…へぇ。何が」
『……ちょっとだけ…仲が良かった』
じゃあ、どうして。
相澤の指が向の頬をなぞる。
指先で何度も何度も彼女の涙を拭う彼の表情は、いつもと何ら変わりなく、穏やかだった。
『…わからない』
だから先生。
教えてよ。
彼女がそんな言葉を口にする。
その他人行儀な物言いに。
応えてやる気など起きなかった。
「………絶対、教えてやらない」