第54章 それだけは譲れない
あとから家に入ってきた相澤に、手首を掴まれ引き寄せられた。
彼の方へと振り返ってしまった事を後悔するより一瞬早く、相澤は向の許可を得る事なく、彼女と唇を重ねてきた。
振り向かせる為掴まれた彼女の片手は、しっかりと彼の指先に絡め取られ、力強く握られて、自由が奪われてしまっている。
繰り返される、その口づけの深さと長さに。
向は彼を押しのけようとして、腰に回された彼の片腕の強さと、自分の片腕の非力さに気づいた。
後ずさって逃げようとすると、彼が踏み込んできて、壁際へと向の身体を追いやった。
いくら想い合っている仲とはいえ、恋人同士じゃない。
本来なら、キスなど許されない。
けれど、目の前の大人はそんなことなど構いはしないらしい。
壁と、相澤に挟まれて。
何度自由な方の手で相澤の胸を叩いても知らないふりをし続けるから、彼女の抵抗が次第に乱暴になっていく。
嫌な事をされたらそう申告しろと言っておきながら、言葉を発する為の口を塞いだままとは大人気ない。
そんな理不尽な状況へと彼女を追いやって、尚。
相澤は暴れていた彼女のもう片方の手首を掴み、壁に押さえつけた。
今度は蹴りつけてくるかと思いきや、彼女は潤んだ目をじっと相澤に向け、個性を使う為の演算を始めたようだった。
一瞬、相澤が反射で弾き飛ばされ、反対側の壁際に背中を打ち付ける。
彼女の個性を抹消するため、紅く染まった相澤の目を見て、向は少しだけ恐怖の色をその目に滲ませた。
距離を取ろうとした彼女が家に踏み込もうとして、ハッと気づいた。
土足で踏み入らないようにと足を引っ込めた彼女はバランスを崩し、身体を回転させ、尻もちをついてしまった。
家主に好き勝手されておきながら、そんな配慮をしてしまったが故に逃げ遅れた彼女を、相澤が見下ろす。
二人の視線が交差した時。
彼は既に個性の使用をやめて、いつも通り長い髪を下ろした状態で、向を見つめていた。
スッと伸ばされた彼の手から、向が視線をそらすと。
相澤はその手をそのまま、向の髪に伸ばした。
一房取った彼女の髪を、屈んだ自分の口元へと近づけて。
もう片方の手を彼女の手に重ねた。
互いの吐息がかかる距離で一言。
彼は囁いた。
「……この、浮気者」