第10章 スーツ男
「何かあったら連絡をください」と名刺を残して、スーツ男さんは去っていった。
彼を見送り、玄関扉を閉める。
家の中はシンとして、少し寒々しさもあった。
伊豆くんはスーツ男さんを見送らず、ずうっとダイニングテーブルの前に座ったままだった。
結局伊豆くんは、スーツ男さんと一言も言葉を交わさなかった。
「ねえ」
私が声をかけると、伊豆くんはゆっくり顔を上げ、私を見た。
「どうする?行くの?」
伊豆くんは少し目を泳がせ
「迷っている」
と言った。
そうか。
迷っているんだねえ。
迷っているってことは、行きたい気持ちもあるんだね。
迷っているってことは、行きたくない気持ちもあるんだね。
行きたくない気持ちって、多分、私のせいだよねえ。
「行きなよ」
私の口から、そんな言葉がついて出た。
伊豆くんの表情が少し歪んだ。
「本当言うとさ…生活、ちょっと大変なんだよね。私のお給料じゃ、2人で食べていくのは、ちょっとね…」
嘘ではない。前々から感じていたことだ。
「そうか…」
伊豆くんは目を伏せた。
それ以上何も話すことはできず、普通にご飯を食べて、普通にお風呂に入って、普通に寝た。
何も言えるはずはない。
私が目を逸らし続けてきた問題に、ようやく向き合う時がきた。それだけのことなのだ。