第8章 To embrace…
「俺はいいよ…」
親父の顔を見た途端に逃げ腰になった智は、俺の手を振り解くと、逃げるようにスタッフ専用の扉の向こうへと消えて行った。
「やれやれ、私はどうもあの子に嫌われているようだな」
「すいません。後で良く言って聞かせておきます」
親父は俺と智の関係を知った上で、偏見を持つことなく智にも接している。
他所の親父よりはよっぽど理解もあるし、寧ろ素性も分からない智のことを、息子の俺と同じように扱ってくれてるってのに…
「まあいい。それより今日のステージ、楽しませて貰うぞ?」
「はい、それはもう満足して頂けると確信してますから」
俺のためだけに踊る、と言った智のステージだ、きっと最高のステージを見せてくれる筈だ。
「では、準備もあるので俺はこれで…」
俺は親父に軽く頭を下げると、智が消えて行った扉を開いた。
ありとあらゆる機材が置かれた通路を抜け、ステージ脇の階段を駆け登り、
「入るぞ」
声を掛けてから楽屋の扉を開いた。
「智、そろそろ準備を…」
腕時計で時間を確認しながら覗き込んた視線の先には、幾重にも重ねられた着物を纏った智が立っていて…
妖艶なまでの色香を放つ美しさに、一瞬にして視線も、そして心までもが奪われ、かける言葉すら失くした。
俺は無言で智を抱き締めると、赤い紅を引いた唇にキスをした。
「見てるから…。一番良い席に座って、見てるから…」
それだけを告げ、俺は今さっき通ったばかりの道を引き返した。
そして客席に降りた俺は、百はある客席の中央…ステージからも客席からも一番見通しの良い席に腰を下ろした。
やがて、全ての照明が落とされ、センターステージの中心部分にだけ、茜色のスポットライトが灯され、まるでそれが合図だったかのように、どこからともなく聞こえて来た和楽器の奏でる音…
客席は一気に異様なまでの緊張感に包まれた。
いよいよ智のステージが始まる…
俺は組んだ膝の上で握った拳に、俄に力が入るのを感じていた。