第2章 正妻と愛人の密約
内装はリフォームされているが、それでも町屋一帯に吹き付ける冬の京都の寒さは、2人のいる部屋の中にも浸透していた。
備え付けの茶器から紅茶を淹れて、ヴァレニエと一緒に差し出して来た純の気遣いに、ヴィクトルは礼を言いながらそれらを頂くと、再度顔を上げて純を見た。
「お前に頼みがある。まず1つは、月末のジャパンナショナルで、俺の代わりに勇利のコーチを務めて欲しい」
「ホンマに僕でええんか?西郡くんなら僕より昔から勇利の事知っとるし、昨シーズンもようサポートしてたやろ?」
「今の勇利には、タケシよりお前の方が適任だ。勇利にも聞いたけど、お前が一緒なら安心できると言ってたよ。俺としてはちょっとムカついたけどね」
返ってきた言葉に、純はさほど驚いた様子は見せず、小さく首肯する。
「…他には?」
「うん、本題はこれからなんだ」
紅茶の入った茶碗を卓袱台に置いたヴィクトルは、改めて純に向き直った。
真剣なヴィクトルの表情を見て、純は今シーズンが始まる辺りから彼に対して感じ取っていた「何か」を心中で持て余しつつ、続きを待つ。
「俺はたとえ勝っても負けても、今季のワールドを現役最後の試合にする。そこで…これまで俺達を支えてくれたお前に、現役最後のEXを頼みたい」
「…僕が支えたのは勇利であって、アンタやないで」
わざとぶっきらぼうに返しながら、純はヴィクトルの反応を窺う。
「それでもお前が勇利にしてくれた事は、結果的に俺の為にもなったんだよ。復帰してから本当に大変な事ばかりだったけど、同時にこんなにもスケートが楽しいと思えたのは、随分久しぶりの事だったから」
まるで子供のような笑顔を見せたヴィクトルに、純はジュニア時代の無邪気な彼のそれを思い出す。
そして、同時にヴィクトルの最早覆る事のない覚悟を痛感すると、いつしか純の黒い瞳には涙が溢れ始めていた。
「…何で泣く?」
「アンタが泣かんからや!…辛いよな。競技者としての自分の最後を認めるのは…」
「お前だって、そうだったろ」
「十把一絡げの僕と、リビングレジェンドのアンタとじゃ、えらい違いや!」
そう言うと、純はやや乱暴な仕草で涙を拭った。