第28章 子達の来訪
よってこの処刑方法は妥当な報いであり、因果応報、自業自得とも言える。
できないことは誰しもある。
彼女の場合は特殊な環境に基づいてのものだからやむを得ない。
両親の環境は変えられない、そして周囲もまた自ら続けてその環境を形作っている。
死んだ心や感情は、滅多なことでは蘇りはしない。
しかし、その彼女の持つ「できないこと」を認めず否定する輩は、その環境に身を置いたことがあるのだろうか?
その環境に常に晒され、できて当然だと責め立てられる気持ちを考えたことはあるだろうか?
好き勝手に差別し、自らを正義と掲げ、被害者面をして、人を責め立て傷付け続ける前に考えて欲しい。
できないこと自体が怠慢だと感じる者達はできて当然の環境だったかもしれないが、『やりたくてもできない人』もいるのだ。
そのできなかったこと一つで本質まで決めつけ、否定し、傷付けることに正当性を求めてはならない。
理解を怠り、自らの普通を押し付けられたことによる苦痛は如何ほどだっただろうか?
ひどい行動だという自覚もなく、苦しむ様を見て笑える神経を果たして善人だと呼べるだろうか?
最初こそ希望は抱いていた、全員ではないと。
しかし彼等彼女等は答えた、自分こそが一番大事で巻き込まれたくはないのだと。
彼女は独りのまま悟った、誰も自分を大事に想う人はいないのだと。
しかし…彼等彼女等との唯一の違いは、それでもなお厳しく当たれない純粋過ぎる優しさ、汚れなさだろうと私は思う。
最後にそう綴られた記者のそれを読んだ人達は一様に、考えるのを放棄して何年も差別を続けた者達に非がある。と言った。
その意見は僅か一日でオラリオ中に広まり、処刑方法を下したロキ・ファミリアが不評を得ることは一切無かった。
寧ろそれだけ精神崩壊に陥らされたのに、それでもなお護ろうとするのは見上げた善心、聖人だとまでケイトのことを口々に褒め称えられていた。