第10章 顕如
『今日はもう自分の部屋に戻ります』
氏政にそう告げると半ば強引に部屋を出る。
廊下ではいつもの様に小太郎が待っていた。
氏政の私室から漏れる声が聞こえていたかはわからないが、いつもと変わりなく自分の部屋へと案内された。
部屋に入ろうとすると、ふいに小太郎が直美の首筋に顔を近づける。
『小太郎さん!?どうかしたんですか?』
『直美様?貴女から氏政様の使っている塗香(ずこう)の香りがします。何かありましたか?』
塗香は邪気を寄せ付けないために用いる粉末のお香で、氏政の愛用品の一つだった。
『いえ、何もないです。お酌をさせていただいた時に近くにいたので香りが移ったのかもしれません』
『そうですか。何もなければそれでいいのです。本当に何もなければね』
念を押すように言った小太郎の言葉にドキっとした。
部屋に戻ったあとは何も考えたくなくて、そのまま朝食の時間が来るまでぐっすりと眠った。